アラ還オヤジの備忘録

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アマルティア・センは、今の日本をどう思うだろうか?


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ネルソン・マンデラとポケトークではBBC Learning English6 Minute Englishというプログラムを紹介したが、他に自分が重宝しているBBCのシリーズにNews Reviewがある。文字通り、その時々のトピックをweeklyで紹介するのだが、このプログラムの良いところは、とにかく取り上げるトピックがタイムリーということだ。先週は、Russian Navalny Protests、そして今週、2月1日にアップロードされたトピックはMyanmar: Military takes controlだ。2月1日と言えば、スー・チー氏が軍に拘束されたというニュースが流れた当日だ。アジアとヨーロッパの間で時差があるとは言え、一体どんな進行でコンテンツを作成しているか、あまりの迅速さに舌を巻く他ない。

News Reviewでは、毎回、3つのニュースメディアのヘッドラインが引用される。今回、イギリスのテレグラフ紙から引用された三つ目のヘッドラインは以下の通り。

Military power grab deals killer blow to Myanmar's fledgling democracy.

“Fledgling” democracyとは、中々手厳しい。

 

ミャンマー民主化で思い起こされるのは、「貧困の克服」(アマルティア・セン著、大石 りら訳)の中の、次の一節だ。

「民主主義形態の政府や比較的自由なメディアが存在する国々では大飢饉と呼べる事態など一度も起こったことがないという事実も何ら驚くに値しないのです。」

民主主義国家では飢饉が起らないというのだ。ミャンマーが軍政から民政に移行したのは2011年。およそ10年前のことだ。しかし、その後もロヒンギャの難民問題は、幾度となく民主主義陣営各国からの批判に晒されてきた。センの言葉通り、もし民主主義国家では飢饉が起きないのなら、ロヒンギャ問題は、なぜ解決しないのか。或いは、“fledgling”な民主主義では解決が難しいのか。

 

そもそも一つの国の中で“飢饉”が発生しているとは、どんな状態なのか。センは、本書の中で次のように述べている。

「実際には、飢饉が人口の5%以上に被害を及ぼすことは稀であり、それが10%以上にのぼることはまずありません。」

また、飢饉は、自然災害のようなものと結び付けられやすいが、実は、

「1973年のインド、1980年初頭のジンバブエボツワナといった、世界でもっとも貧しい民主主義国家ですら、実際に深刻な旱魃や洪水その他の自然災害に見舞われた時には、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずにすんだのです。」

と、民主主義国家においては、甚大な自然災害下でも、飢饉が発生しなかった事例を紹介している。その一方、

「中国が三年ものあいだ、政府の政策の誤りを修正せずに放っておいた結果、1958年から61年にかけて三千万人もの餓死者を出してしまいました。議会には野党勢力もなく、複数政党制による選挙も行われず、自由なメディアも存在しなかったために、政府の政策の誤りが批判にさらされることがなかったのです。」

と、非民主主義国家で飢饉が発生する原因を説明したうえで、

「飢饉は、それを阻止しようとする真剣な努力さえあれば、簡単に阻止できるものなのです。」

と結んでいる。

では、なぜ民主主義国家では、真剣な努力がなされるのか。それは

「民主主義国家では選挙が行われ、野党や新聞からの批判にもさらされるので、政府はどうしてもそのような努力をせざるを得」

ないから。さらに、 “飢饉の発生において経済的不平等が果たす役割”として、

「たとえば突然の大量解雇など、市場機能の急激な低下によって新たに生じた不平等のおかげで、ある社会集団に属する人々だけが飢餓に見舞われることもありうるわけです。」

と述べ、続けて、さらに強い口調で、

「境遇に格差が生じたために他の社会集団は無傷だというのに一部の社会集団だけが壁にたたきつけられるようなことが起(こりうる)

として、それを防ぐためには、社会保護が必要不可欠とし、次のように結論付けている。

「物事が順調に運んでいる場合には、民主主義の保護的な役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で事態が大混乱に陥った時にこそ、民主主義はその真価を発揮してくれるものなのです。」

何らかの理由で事態が大混乱に陥って、一部の社会集団だけが“壁にたたきつけられる”ようなことが起っても、民主主義国家は、それを阻止しようと真剣に努力し、飢饉の発生を防ぐことができる…。

 

ここまで読んで、はたと考え込んでしまった。今の日本は民主主義国家なのだろうかと。

菅首相は先月の記者会見で「昨年以来、我が国の失業率は直近で2.9%と主要国で最も低い水準」と胸を張った。失業した国民が100人中2.9人でも(実際の失業率はもっと高いに違いないが)、その2.9人は“壁にたたきつけられている”のだ。しかし、いまの日本政府が、それを阻止しようと真剣に努力しているのか。一部の限られた業種、条件のグループが優遇され、そこから外れれば、“飢饉”状態を免れない。たとえば、大学授業料と“井戸塀”で紹介したような、一日一食で我慢せざるを得ない大学生も存在するのだ。

 

本書は、アジア初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが、1997年から2000年にかけて行った四つの講演の論文集だ。センは本書の中で、日本を民主主義の“成功事例”として度々紹介しているが、はっきり言って“ベタ褒め”状態である。そんなセンが、今の新型コロナ禍での日本政府の対応をみて、一体どう思うのだろうか。

因みに、本書の中では、故小渕恵三元首相の発言が幾度となく紹介されている。小渕元首相といえば、官房長官時代には“平成おじさん”などと言われ、田中真紀子氏からは“凡人”などと揶揄されていたのだが、こうして世界的に著名な学者の講演の中で、その言葉が賞賛と共に引用されているのを見ると、日本人として誇らしい気持ちになる。それに引き替え、“令和おじさん”はと言えば…。

 

センは、

「人々の批判に直面し選挙で支持してもらわなければならない場合、統治する側には、人々の要求に耳を傾けるべき政治的インセンティブがあるのです。」

と言い、

「政府が必ず人々のニーズに応えて、また、苦境にある人々を支援できるように、民主主義の手段的な役割─選挙、多党政治、報道の自由など─は、きわめて実際的な重要性を持ちます。」

とも言う。これは、政府が苦境にある人々の要求に耳を傾けないのであれば、国民は民主主義の“手段”を用いろということだ。今年は衆院選がある。コロナ下での日本政府の対応を目の当たりにした日本国民は、どのように“手段”を用いるのだろうか。