アラ還オヤジの備忘録

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ヘレン・ケラーと”空飛ぶ”教科書


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外国人と話をしていると、時に「英語はどこで学んだのか?」と尋ねられることがある。その時私は決まって次のように答えることにしている。「中学校で習いました。」

 

大抵の場合、相手は冗談を言っていると受け止めて、笑いながら別の話題に移っていくのだが、自分としては、偽らざる気持ちを伝えただけだ。

 

私の中学時代、英語の先生は3年間同じだった。女の先生で、年齢は40代半ばか、或いはそれ以上という印象だが、実際はもっと若かったかもしれない。子供の頃というのは、大人の年齢を上に見がちだ。

 

さて、この先生(ここでは仮に"O先生”と呼ぶことにしよう)、いろいろな意味で個性的であった。たとえば自分の教室が一階にあり、二階でO先生の授業が行われているとしよう。時折、二階から教科書が"降ってくる”。一階で授業をしている別の先生は「今日は、O先生は荒れてるな。」などとつぶやきながらも、いつものことなので、さして気に留める様子もない。一方、生徒のほうは、次の時限にO先生の授業があったりすると、「あ~、今日のO先生の授業は大変だなぁ…。」と気が重くなるのであった。こんなことが続けば、父兄の間でも問題になりそうなものだが(と書いて、"父兄”という言葉が今も通用するのか気になったが、このまま続ける)、少なくとも私の在学中は、そのようなことはなかった。理由を考えてみるに、多分、O先生の授業内容に対して、評価が高かったからではなかろうか。(或いは、校長先生が、元々英語の先生だったので、その手腕を買っていたためにO先生を守ったということもあるかもしれないが…。)

 

O先生の授業には、大きな特徴があった。授業中、"英語しか話さない”のである。今の世の中では、"まあ、そういうこともあるだろう”と思われるかもしれないが、時は昭和40年代、今から50年近く前のことだ。小学生時代に英語の塾に通うような生徒は極めて少数派だ。東京ならともかく、地方では、子供向けの英会話教室など、影も形もない時代である。そんな子供たちが、小学校から中学に上がり、初めて英語に触れる時、先生が英語しかしゃべらないとしたらどうだろうか。適切な例えかどうかはわからないが、ヘレン・ケラーとサリバン先生の関係に近いような気がする。何しろ、こちらは全く英語がわからないのだ。O先生は授業中、英語でしか喋らない。何かしろ!、と言っているようなのだが、理解することは不可能だ。そのうちO先生は、こちらが理解できないことにいら立ち、ヒートアップしてくる。結果、教科書が宙を舞うのだ…。

 

私自身、中学一年の一学期は、とにかく大変だった。怒られるにしても、何で怒られているのか解らない。そこで、(多分、こういうことなんじゃなかろうか)と想像し、それが当たれば見つけもの、外れれば、さらに先生の怒りが増す。少数派の英語塾に通っていた生徒以外、私を含め、普通の生徒は英語の授業がある日は朝から気が重いのであった...。

 

ところが、2学期、3学期と時間が経つにつれ、生徒たちもだんだんと要領を掴んでくる。解らなかったことが、どうしたことか、少しずつ解るようになってくる。そうして、2年生、3年生になっても、O先生の授業は続き、時に教科書を窓の外に放り投げられながらも、何とか三年間を過ごすことができたのだった。

 

当時は、生徒側の立場で、"大変な先生に当たってしまった”と気を病むばかりであったが、今は、教える先生側の苦労は如何程であったか、想像することができる。例えば、仮に文科省が「今後は、英語の授業中、先生は英語しか使えないことにする」と通知を出して、対応できる先生がどれだけいるだろうか。"英語だけで英語を教える”のは、英語が話せればできるというものではない。授業の構成にも工夫が必要だろう。また、それに取り組む"覚悟”のようなものがなければ、"英語だけの授業”を継続的に実施するのは困難なのではなかろうか。

 

英会話教室に行けば、外国人講師が英語だけのレッスンをしてくれる」という反論もあろうが、それは、教わる側にある程度の基礎知識があるという前提で成り立っているように思う。ドリフの荒井注が"This is a pen.”と言った時(わかる世代にしかわからない例えで申し訳ない)、be動詞は主語が三人称単数だから"is”で、冠詞は"pen”が子音から始まるから"an”ではなく"a”ということを、外国人講師が英会話のレッスンでゼロから教えてくれるとは思えない。(O先生は、これを、中学一年相手に、英語だけで教えていたのかと思うと、頭が下がる)。

 

話は少し逸れるが、昨今は"英文法”より"英会話”、書くことより話すことが重要視され、評価される風潮があるように思う。個人的意見を言わせてもらえば、仮に英文法が判らずに英会話ができたとして、海外観光に行くにはそれでよいかもしれないが、ビジネスの世界では通用しないという印象だ。正しい文法を用いる人間と、そうでない人間がいたら、前者のほうが圧倒的に相手の信用を勝ち取ることができるというのが実感だ。自分も、できるだけ文法的に間違いがない言葉遣いをするよう心掛けている。一方、ビジネス英会話で交わさせる言葉に必要な文法のほとんどは、私が中学時代に習ったレベルの知識で事足りる。(あとはボキャブラリーを増やすだけだ。)そういう意味では、あの当時の中学英語のカリキュラムというのは、かなり実用的かつ実践的だったと思う。昨今は、どうしたら英語が"喋れる”ようになるのか、そのための英語教育についての議論が多いように思うが、"喋れる”かどうかは、喋る機会がどれだけあるか次第。実生活のなかで喋る機会がないのであれば、"喋れる”ようにはならないのだから、まずはしっかり文法を学んだ上で、あとは英語を"日常的に使わざるを得ない”環境を、生徒たちにどうやって提供するかを考えればいいように思うのだが如何だろうか。例えば、クラス担任は外国人にして、日常の連絡事項やホームルームはすべて英語にするとか。

 

あれから50年近い年月が経ったが、O先生はご存命であろうか。叶うのであればお会いし、是非お礼を申し上げたいのだが…。