アラ還オヤジの備忘録

自分の経験の中で役に立った本、気になったモノ・コト、思い出など

クラシックコンサートとSNS

以前、5G対応ガラホはかなわぬ夢かで、自分が今もガラホを使い続けているとお話した。“自分の携帯の使い方では、通話、キャリアメール、ショートメールがあれば事足りる”と説明したが、要はSNSとも縁遠いということだ。FacebookもLINEも使っていない。実は手持ちのガラホにはLINEのアプリはデフォルトでインストールされていて、使おうと思えば使えないこともないのだが(一応アカウントも持っている)、そもそもLINEでの"pushy"なコミュニケーションの在り様が自分向きとは思えないこともあり、「スマホを持っていない」ということが、LINEをやらない口実にもなっている。

そんななかで、唯一使っているSNSツイッターなのだが、使い始めた理由は“災害時に繋がりやすい”ということだった。2011年の震災時、電話はおろか、電子メール(久しぶりにこの単語を使った気がする)や携帯のキャリアメールも、軒並み連絡不能になった。そんな中、SNSは比較的つながりやすかったという話を後で聞いて、(それなら念のために入れておくか)ということで、始めたのがツイッターだったのだ。

しかし、使い始めたのがそんな理由だから、フォローしているアカウントも限られている(“緊急時の連絡”ということであれば、最低限、家族のアカウントがわかっていれば用が足りる)のだが、そんな数少ないアカウントの中に、新日本フィルハーモニーのアカウントがある。

 

オーケストラのアカウントをフォローして、どんなメリットがあるのか、といぶかる方もいそうだが、コンサート情報等をタイムリーに発信してくれるので、結構重宝している。実は昨年末に、その重要性を認識させられる出来事があった。

新日フィルは、例年大晦日の晩にジルベスターコンサートを開催している。昨年もコロナ禍のなか、対策を取ったうえで開催されることがアナウンスされていた。自分は年末年始は寝正月を決め込んでいる方なので、これまでこのジルベスターコンサートに足を運んだことはないが、楽しみしていた方も多かっただろう。それが、開催三日前の12月28日に、指揮者の宮川彬良氏を含め、出演予定者数人のコロナ感染が明らかになり、結果、コンサートは中止を余儀なくされたのだった。

既に述べた通り、自分はコンサートに出向く予定もなく、当然チケットも持っていなかったのだが、この“公演中止”の情報をツイッターで見たとき、(この情報を得られず、三日後の当日に、コンサートホールまで出かけてしまう客が結構いるのではないか)と思ったのだった。そもそも、クラシックコンサートのオーディエンスというのは、それなりに年齢層が高そうに思える。実際クラシックのコンサート会場に行っても、アラ還の自分より年上と思われる方々が多い。そんな年齢層の皆さんが、ツイッターで発信された公演中止の案内をタイムリーに見ているとは、想像し難い。もちろん主催者側はツイッター以外のSNSや、さらにはSNS以外のチャンネルを通してチケット購入者全員への周知を試みたに違いないが、現実問題としては、わずか2~3日で、すべてのチケット購入者にアクセスするのは難しかったのではなかろうか。主催者側は大変なご苦労だったことは想像に難くない。

 

話は変わるが、昨今は、住民への連絡や生活情報の提供について、SNSを活用している地方自治体も多い。その一方で、それまで用いられていた紙媒体等の情報提供については、“合理化”の名のもとに、発行頻度の減少や体裁の簡素化が進み、さらにはSNSを通してでしかアクセスできない情報すら出てきている状況だ。そんな“情報の電子化”の流れの中では、SNSの使い方も含め、ITリテラシーの不足は、それこそ“命取り”になりかねない。

SNSの活用は、勿論良いことだし、推進すべきことだと思うが、それと同時に、そのような世の中の進歩に乗り切れていない世代に馴染みのある情報チャンネルについても、継続的な改善と存続への配慮をお願いしたいものだ。

睡眠薬混入事故と東海村臨界事故

水虫治療薬に睡眠導入剤の成分が混入した問題、昨年12月11日の発覚後、様々な報道がなされているが、その原因については、未だに納得できる説明が聞かれない。直近の報道では、有効成分の容器と、混入した成分の容器が、同じ棚の上下に並べて置かれていたとのことだが、果たしてそれが実際に作業した社員の問題なのかどうか、現時点では自分にはわからない。というのは、もしその“置き方”が、会社で定められていたのなら、社員はそれに従っただけだからだ。

医薬品の製造においては、事細かに“SOP”が定められているはずだ。SOPとは、Standard Operating Procedures、すなわち“標準作業手順”のこと。有効成分の取り扱いについては、その容器の種類、置き場所、さらに置き方まで細かく定められているはずだ。普通に考えて、製薬会社の工場に勤務する人間が、自らの“独断”でSOPに外れた手順を取るとは考えにくい。昨日の報道では、会社側が、それぞれの有効成分が入っていた容器は「大きさや形が全く異なって」おり、「一般的な感覚では間違えないレベル」と説明しているそうだが、この説明を聞いても、「一般的な感覚では間違えないレベルの大きさ・形の違いなので、同じ棚に並べておいても問題ない」と考え、その結果、SOPには「同じ棚に置く」と記載されていたのではないか。あくまで自分の想像だが、そんなふうにも思える。

一方、「関係者は『ヒューマンエラーを起こしやすい状態だった』と危険性を指摘している」とのことだが、医薬関係者でなくても、「効果も、作用の強さも全く違う成分を並べて置くのはどうなのよ?」というのが、まあ普通の感覚だろう。しかし、製造工場のような“閉じた”世界の中では、“普通”の感覚から、時にずれていくことがあるのは、何も医薬品業界に限ったことではない。しかし、そんな“ズレ”は、医薬品製造においては、起きてはならない事故に直結しかねない。今回は、まさしくそのような事例なわけだが、一方、そんなずれを“検知”する仕組みも当然あるわけで、今回、どうして、その“仕組み”が機能しなかったのかについての検証も必要だろう。

例えば、社内監査部門は、SOPの作成に対して、どのような役割を果たしていたのか、或いは社内監査部門による現場のチェック・訪問は、どのような頻度、内容だったのか。

さらに言えば、行政の関わりについても検証が必要だろう。医薬品の製造所には定期的に行政当局の査察が入っていたはずだ。その時、当該SOPは査察の対象だったのか、なかったのか、もし、対象であったなら、それに対してどのような指摘・指導をしたのか、或いはしなかったのか、さらに査察全体を通して、当該事業所に対する評価はどのようなものだったのか。万が一、査察の結果が「問題なし」、「優良事業所」の類であったとしたら、そんな「ザル」査察がまかり通ってしまった理由も詳らかにすべきだろう。

 

少し前の報道の中には、厚生労働省が「社風や経営層の姿勢が根底にある」と宣ったともある。その理由は「事案発生以降、経営層が誰も現場を確認していない」ことらしい。まあ、経営陣が現場を確認すれは、なおよかったとは思うが、会社組織のなかで、どのレイヤー(階層)の人間が現場を確認するかは、当該事案についての知識レベルも考慮されるべきだろう。例えば、東日本大震災の際、時の首相は福島第一原発に直接出かけたがったらしいが、それがどれほど実効力があることなのか、当時も疑問に思ったものだ。社長が現場を見に行かないから「社風が原因」と決めつけるのも如何なものか。どうも、今回の事故を「特定の会社の、イレギュラーな問題」として片付けようとしている意思を感じてしまうのだが、根はもっと深いところにあるような気がしてならない。

 

そんなことを感じながら、ふと思い出したのは、東海村臨界事故だ。発生したのは1999年9月30日というから、もう20年以上前のことだ。JCO東海事業所の核燃料加工施設内で、核燃料を加工中にウラン溶液が臨界に達し核分裂連鎖反応が起き、作業員2名が死亡、1名が重症となった。原因は、硝酸ウラニル溶液を、沈殿槽にステンレスバケツで流し込んでいたから。この“バケツ”での作業については、当時もずさんな作業工程管理の証左として、繰り返し報道されていたものだ。

しかし、その後、事故の検証が進むにつれ、実態は随分と違ったものだったことが明らかになる。「浪費なき成長」(内橋克人著)には、次のような記述がある。

「あの事故はそもそも、まじめな努力家たちが、いかに作業を効率的に行うか、いかに作業効率を上げて、合理化に貢献するか、企業に貢献するかということに、知恵を絞り、貯塔を利用する代わりに、ステンレスバケツを使って直接、沈殿槽に溶液を入れる、という提案をし、採用されたというのが真相です。」

そして、この事故の根本原因は、行き過ぎた、かつ間違った方向での「効率追求」にあったと結論付けている。

 

今回の混入事故を起こした小林化工は、日本ジェネリック製薬協会(GE薬協)の会員会社だ。 近頃は、“ジェネリック”という言葉も、だいぶ市民権を得てきたが、日本語では“後発(医薬)品”、医療費削減の切り札として、国もその普及と使用率の向上の為に様々な施策を講じてきた。その結果、昨年12月の厚生労働省の発表によれば、2020年9月時点でのジェネリックの使用率は78.3%だったとのこと。政府目標の80%に届かなかったが、かなりの使用率だ。先発(医薬)品との価格差を考えれば、この“ジェネリック推進” の方向性は今後も続くだろうし、間違ってもいないと思う。一方、そもそもの出発点が“医療費削減”であることから考えれば、ジェネリック市場全体が熾烈な“コスト削減”競争に晒されていることは容易に想像できる。

GE薬協のホームページを見ると、 “効率”という文字が幾度となく出てくるが、それが“行き過ぎた、かつ間違った方向”でないことを心より願う。

“ほっこり”に遺憾

今年の三が日は初詣に出かけることも出来ず、ウチに籠ってテレビ三昧だった。といってもバラエティー番組は苦手なので、録り貯めていた映画やドラマなどを片っ端から観ていたのだった。

年末年始ということで、テレビ各社とも力の入ったドラマや、大ヒットした映画等、見るべきものはいろいろあったのだが、その中で、一番楽しめたのはと聞かれれば、テレ東で放映された「絶メシロード」の特別編ということになろうか。

 

このドラマ、昨年頭から同局の深夜ドラマ枠で放映されていた。既視感のあるグルメ番組の体(てい)を、最初は(〇独のグルメみたいなものだろう)と何の気なしに見ていたのだが、そのうち、その“脱力さ”加減が、就寝前に観るにはちょうど良く、結局、全話を観ることになってしまった。本編は昨年春には終了したのだが、今回は新春特番が放映されるのを新聞のテレビ欄で発見し、予約したのだった。

内容は、昨年放映の本編とほぼ同じ進行ながら、“元旦スペシャル”ということでエピソードは二つ。特に、後半の軽井沢の洋食屋の話がよかった。一緒に観ていたカミさんは、「このマスター役の俳優さんは久しぶりに見たわね。誰だったかしら?」などと宣っていた。(“トミーとマツ”に出ていた国広富之に決まってるだろう)と心のなかでは毒突きながらも、「そうだねぇ」などと生返事をしながら、最後まで楽しんだ。

 今回の二つのエピソードもそうだったが、ドラマ全体のトーンとしては、コミカル&ハートウォーミングな内容に、“店の終わり”というペーソスが隠し味として効いているというところか。もしかすると、このドラマの雰囲気を言い表すのに“ほっこり”という言葉は使われる方もいるかと思うが、実は、自分はこの“ほっこり”という言葉が苦手だ。

 

そもそも、この“ほっこり”、自分が子供の頃、というより大人になってからも、暫くはあまり使われることがなかった言葉と思う。では、最近出てきた言葉なのかというと、そうでもないようだ。手元に昭和51年(1976年、今からおよそ44年前だ)出版の広辞苑第二版補訂版があるが、それを見ると、「ほっこり」の項があり、「①あたたかなさま。ほかほか。」とある。因みに②は“(上方方言)やきいも”、③はなんと“疲れたさま”である。

 

そんな“ほっこり”が、ある時から急に使われ出すようになった印象なのだが、一体いつ頃からだろうか?思い出されるのは、モヤモヤさまぁ~ず2のアシスタントが大江麻理子アナから狩野恵里アナに変わった頃のことだ。確か、狩野アナになってから間もない頃の放映だったと思うが、何かの感想に、狩野アナが“ほっこり”という言葉を使うと、さまぁ~ずの二人の反応は(むむっ…)という微妙なものだった。“ほっこり”に対するその当時の自分の反応もそのようなものだったので、妙に記憶に残っているのだ。その後、“ほっこり”という言葉は、度々聞くようになったが、自分の中での印象は従来から変わらないままだ。聞けば何となくこそばゆく、使うことは憚られるような…。話は変わるが、狩野アナは最近あまり見かけなくなったように思うが、如何されているのだろうか。自分の役回りに徹し、求められれば躊躇なく「クックドゥードゥルドゥー」と大声で叫べるような、真っすぐで生真面目なキャラは、なかなか得難い人材と思っていたのだが…。

 

そんな“ほっこり”と同じく、自分の中で引っかかっている言葉が“遺憾”だ。何か“やらかした”時にこの言葉を使うのは、大企業から、政治家、官僚、はたまた警察、検察に至るまで、実に幅広い。一方、(本当に意味が解っているのか?)と首を傾げたくなるような使い方を耳にするのも少なくないと感じる。再び広辞苑第二版補訂版を紐解いてみると、こうある。

 

い・かん【遺憾】 のこりおしいこと。残念。気の毒。

 

ここには、“謝罪”の意味は全く含まれていない。やらかした当事者・関係者が「遺憾だ」などと言うのは、明らかに使用法を間違っている。遺憾なのはこちら側であって、そちらが言うべきは「申し訳ございません」だろう。普段頭を下げることに慣れていない組織のトップが、意味もよく解らず、遺憾と言っておけばそれで済むと思っているのだろうが、そもそもそんな人間が上に立つ組織は、ほぼ間違いなく“腐って”いると断言できる。自らの組織の不始末を公の前で謝罪するからには、よほど言葉を慎重に選んだうえでその場に臨むというのが組織の長のあるべき姿だろう。それが出来ないトップが率いる組織のレベルなど、たかが知れている。

 

一方、何か“やらかされた”際にもこの言葉を耳にすることがある。例えば主権を侵害された国の政治家が、相手国に対して「遺憾だ」などと言うケースだ。しかし、これも随分とおかしな使い方だ。領海侵犯されたときに「残念です」という反応で、本当によいのだろうか?官房長官が記者会見で「遺憾だ」と言った内容が、先方のお国の言葉で「残念です」などと翻訳されていたとしたら目も当てられない。「そんな腰の砕けた反応なら、もっとやっても大丈夫」と思われても仕方なかろう。

 

 国を率いるトップの皆さんは、国民から「遺憾だ」などと言われることのないよう、くれぐれもご注意を。

アビガン承認見送りとローレンス・クラインの“悪徳”

先週は、新型コロナの感染急拡大(爆発?)や「桜を見る会」を巡る安倍晋三前総理秘書の略式起訴と本人の衆参両院議院運営委員会に出席等、いろいろなニュースがあったが、自分の中で一番刺さったのは、「アビガン承認見送り」だ。

厚生労働省は12月21日、ファビピラビル(商品名アビガン)の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)治療薬としての薬事承認を見送ったとのこと。一体何があったのか?

アビガンと言えば、そもそも前首相が在任中に記者会見で「5月中に承認」などと言っていたのが、その後のすったもんだで、最終的に製造元の富士フイルム富山化学が効能・効果追加申請したのが10月16日。それが二か月以上経って、承認“見送り”とは。

 

報道によると、アビガンの有効性・安全性を審査した薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会で、試験デザインが「単盲検比較試験」だったことが問題にされたとのこと。しかし、富士フイルム側のコメントによれば、試験計画は「PMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)の合意を得ていた」という。もし、それが本当であれば、一体何の為の合意だったのか?因みにこのPMDA、ただで相談に乗ってくれるわけではない。PMDAのウェブサイトによると、医薬品申請前相談(希少疾病用医薬品以外)は、一相談当たり9,497,400円。ほぼほぼ一千万円だ(希少疾病用医薬品は7,130,100円。因みに“希少疾病”とは、国内の患者数が五万人以下の疾患のこと)。アビガンでの“PMDAの合意”が、どのような経緯で得られたのか報道には記載がないが、相談料をたんまり取られたうえでの“手のひら返し”であれば目も当てられない。自分は富士フイルムには縁も所縁もないが、心からの同情を禁じ得ない。

 

そもそも、その薬がヒトの役に立つか否かを、どうやって判断すべきなのか。教科書的には“二重盲検”比較試験で“統計的有意性”が証明される必要がある。今回の審議会の結論も、そういう判断基準によるものと言われれば、富士フィルムとしては反論が難しかろう。しかし、そのような“教科書”的な判断基準に合致する試験計画を、いつも組めるわけではない。“二重盲検”ということは、医者も患者も、飲んでいる薬が“本物”か“偽物”か、わからないということだ。いわゆる生活習慣病のようなものならまだしも、生死を分けるような疾患で、自分の飲んでいる薬が“偽物”かもしれないという状況を想像してほしい。これは「単盲検」の状況だ。そんな治験への参加に同意された患者さん達には頭が下がる思いだ。しかし、その状態からさらに、薬を投与している医者も“本物”か“偽物”か、わからないとしたらどうか。私なら、今の新型コロナ感染状況の中では、同意書にサインすることは到底できない。

 “統計的有意性”を証明するためには、薬の“パワー”に応じた症例数が必要だ。生活習慣病をたびたび引き合いに出して申し訳ないが、そのような患者数の多い疾患であれば問題ないが、新型コロナのような疾患では、かなりの制約があることは容易に想像できる。そんな中、“統計的有意性”を示すことができる症例数を得るために、試験デザインを「二重盲検」でなく「単盲検」にしたとして、それを責めることができるのだろうか。

 

一方、この“統計的有意性”が“金科玉条”化していることについても問題がある。こんなことを言うと、“素人が何を言っているのか”と統計学者たちから冷笑されそうだが、実はこの指摘は私によるものでない。ディアドラ・N. マクロスキーは、その著書「ノーベル賞経済学者の大罪」(原題:The Vices of Economists-The Virtues of the Bourgeoisie、赤羽隆夫訳)の中で次のように述べている。

「ある点で、私たちは機械的な統計処理から離れ、『その何が重要なの?』という常識から発する疑問を問い掛けるべきである。」

「重要な点はどれだけ大きい効果がえられるかである。効果の大きさはどれほど人間に役立つかによって判断されるのであり、決して恣意的に定義された『統計学的有意性』によって判断されるものではない。」

 

さらにマクロスキーは、「統計的有意性」(statistical significance)を「科学的重要性」(scientific significance)と同一視(混同)したとして、これをローレンス・クラインの「悪徳」と表現している。ローレンス・クラインといえば、第12回目のノーベル経済学賞受賞者だ。このように書くと、「マクロスキーの主張は、経済学についてであって、医学に対してではないだろう」と思われるかもしれないが、さにあらず。マクロスキーは「悪徳」の事例として、医学に関するエピソードを、これでもかというほど紹介している。まるで、経済学批判の体を取りながら、実は医学に対する批判が目的では、と勘繰りたくなるほどだ。

蛇足になるが、本書のなかでマクロスキーは、統計学の専門書からの引用として、こんな指摘もしている。

「標本規模が十分に大きくなれば、すべての回帰曲線は有意になる。」

結局、どれだけ患者数を集められるかどうかで、医薬品開発の成否が定まるということか。

 

マクロスキーの主張が、所謂「主流派」でないことは明白だ。しかし、新型コロナの感染が急拡大する中で、統計学的に“理想的”な条件を満たしていないという理由だけでアビガンの承認を見送るというのは、まさに「どれほど人間に役立つか」という視点が欠落した“悪徳”の結果と感じるのは、私だけだろうか。

マーラーとたいやきくん(そして、“一流の政治家”がしないこと)

以前、“目覚めの音楽”のおすすめは?で、毎朝、目覚まし時計代わりに、レスピーギ作曲の「ローマの噴水」のCDをかけている話をしたが、その時、「以前は別の曲だった」と書いた。今日はその別の曲の話。

 

「ローマの噴水」が気に入っている理由は、曲が始まってからしばらくの間は寝床で微睡んでいられるような曲調が続き、その後、寝床を出ざるを得ないような大音量になるところだが、前の曲も同じ理由からの選曲だった。“しばらく静かで、その後大音量”ということだけであれば、いろいろな曲があると思うが、できれば目覚めにふさわしい“明るい”曲を選びたい。コードはメジャーで、“大音量”のパートは、元気の出そうな旋律のもの。そんな基準で選んだのは、マーラー交響曲第一番「巨人」だった。

 

この曲が自分のなかで印象付けられたのは、あるテレビ番組によってだと思う。その昔、「オーケストラがやってきた」という音楽番組があった。司会は山本直純。(呼び捨てはまずいか。ちょっと気になるがそのまま続ける。)ある回で、この曲が取り上げられたのだが、その紹介のされ方が、なにしろユニークだった。当時流行っていた「およげ!たいやきくん」の歌詞を、第一楽章の主要主題にそのままそっくり乗っけたのだ。すると、なんと“まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの…”という歌詞が、主題のメロディーにぴったりと収まるではないか!まさかそんな、と思われる方は、是非試してほしい。「およげ!たいやきくん」のメロディーのコードはマイナーで、あの歌詞も一層哀愁漂う感じだが、マーラーの方はメジャーコードだ。元のメロディーと比べると、随分前向きな印象に変わるのだった。

 

そんな「巨人」を目覚めの音楽として聴くために選んだCDは、ズービン・メータ指揮、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団の演奏によるものだ。

録音は1974年12月、場所はイェルサレム。「巨人」のような人気曲は、様々な演奏家によるCDが数多あるが、その中でメータ&イスラエル・フィルというチョイスは、やや渋めというべきか。演奏の印象としては、ややテンポが速いこととも相まって、当時のメータの“勢い”を感じさせる。“名演”と言っていいのではないか。

 

それにしても、1974年にイェルサレムで録音というのは、当時の中東情勢を思うと、なかなか興味深い。

1973年10月、イスラエルは、エジプトとシリアから奇襲を受けた。所謂「ヨム・キプル戦争」だ。“ヨム・キプル”、または“贖罪の日”と呼ばれるユダヤ教の祭日に、不意を突かれたイスラエルは、開戦当初、苦戦を強いられた。当時のイスラエル首相はゴルダ・メイヤ。女性である。しかしその後、アメリカからの支援もあり、最終的にはイスラエル軍が逆転勝利を収めた。この時アメリカが支援を決める経緯については、当時の米国大統領であるリチャード・ニクソンの著書、「指導者とは」(原題:LEADERS、徳岡孝夫訳)に詳しい。

支援した当事者の回想だから、その内容は(ここまで書いていいのか?)と思うほど詳細で、当時の緊迫度がこちらに伝わってくる。因みに、記載の個所は「新しい世界」の段のゴルダ・メイヤについての部分ではなく、「ニキタ・フルシチョフ」の段だ(このあたりに、ニクソンという人の政治思想が垣間見える)。もちろん、ゴルダ・メイヤについての記述の中でも、ヨム・キプル戦争については触れられているのだが、こちらは、メイヤ首相からアメリカへの感謝の言葉が中心だ。

そんな「ヨム・キプル戦争」の翌年、メータはこの録音をしたのだ。街のそこかしこで、戦争の名残を感じただろう。そんな中、当時まだ38歳だったインド人指揮者は、一体どんな気持ちで、タクトを振ったのだろうか…。

 

因みに「ヨム・キプル戦争」当時のエジプト側の大統領はサダト。「指導者とは」の中には、サダトについての記述もあるが、その中に、ニクソンによる興味深い言葉があるので、それを紹介しておしまいにする。

 

サダトは農民の出であることを隠さなかったが、べつに自分が「庶民の一人」であることを国民に誇示しなかった。一流の政治家は、あまりそれをしないものである。

“ゾンビ”投信を売払った件

素人投資家が憂う日銀のETF購入で、NISAが始まってから株を買い始めたといったが、株以外に投資信託も買っていた。こちらも財テク雑誌で「投資信託の積み立てもお薦め」などと書かれているので、小市民よろしく素直にその“アドバイス”に従ってきたのだが、先日、新聞を読んでいると「ゾンビ投信」という文字が目に留まった。

(何だ、これは)と思ってよく読んでみると、最近の激しい手数料競争の中でも古い投信には手数料が高く運用効率も悪いものも残っているそうで、それを「ゾンビ投信」と呼ぶらしい。記事の中で、“いい”投信と“わるい”投信の事例として、それぞれ紹介されていたのは「eMAXIS Slim国内株式(日経平均)」と「三菱UFJ インデックス225オープン」。「eMAXIS Slim国内株」は信託報酬が0.14% で、こちらは“安い”例。一方「三菱UFJ インデックス225」 は“高い”例で0.62%とのことで、こちらが所謂「ゾンビ」だ。

(なるほどね)などと思いながら、(はて、自分の持っている投信の信託報酬はどれくらいだろう?)と疑問が湧いた。何しろ、大して調べもせず、雑誌やネットで、「この投信がいいですよ」と載っているものを鵜吞みにして買っていたのだ。銘柄は「SMT グローバル株式インデックス・オープン」。早速、信託報酬を調べてみると、何と0.55%。(ほとんどゾンビと同じじゃないの)というのが、まず第一印象。己の不明を恥じつつ、次に考えたのは、(はて、これは、このまま持っていてもよいのか、それとも売ってしまうべきか)という疑問だった。(件の新聞記事には、証券会社への提言、というよりは“苦言”はあった一方、購入者へのアドバイスはなかった。)

まずはネットで「SMT グローバル株式インデックス・オープン」を保有している人が何か言っていないか調べてみる。すると、「手放したいが塩漬けにしている」というのが大方だった。投信を売るには手数料もかかるが、利益が出ていれば、それに対して当然税金も取られる。「SMT グローバル株式インデ」は、“世界の主要国の株式に分散投資”しているから、近頃の米国マーケットの好調につられて、設定来最高値水準になっている。普通に売れば、利益が出ている分、税金もたくさん取られてしまうのだ。

しかし、私の場合は少し事情が違う。そもそもNISAが前提で積み立てを始めたのだ。初期に買った分は、ロールオーバーせずに特定口座に移していたが、それでも、かなりの部分は今でもNISA口座にある。そうであれば、少なくともNISA口座分は売却しても税金が取られないのではないか。

そこで、さらにググってみたのだが、残念ながら「ゾンビ投信」の売却についてのコメントは見つけられなかった。さあ、どうするか。折しもこの年末のタイミングで、証券会社からは、「ロールオーバーするか、しないか、早く連絡して」との催促のメールが届いている。“決断”を先延ばしにする余裕はない(ちょっとオーバーだが…)。

結局、(“ゾンビ”なんぞを手元に置いておくのはアラカンの沽券にかかわる)という非科学的な判断で、NISA口座分は全て売却すると決めたのが3日前。そして今日、証券会社から売却注文約定の連絡があった。本当にこれでよかったのか、全く自信がないが、まずは一仕事終わったということで、安堵のため息が出た(全くの小心者である)。

売却で得た資金は、半分は、“ゾンビでない”今時の投信に再投資するつもりだ。しかし、残り半分は、暫く現金としてそのまま持っておこうと思う。米国マーケットの好調が、このままずっと継続するとは、ちょっと思えないからだ。

 

それにしても、“5年たったらロールオーバー”とか、日本のNISA特有の面倒な仕組みは何とかならないものか。NISAの見本となったのはイギリスのISAだが、こちらは1999年の導入時から、そもそも非課税期間に制限がなく(NISAは5年)、口座開設期間も当初10年の期限付きだったのが、導入9年目の2008年に撤廃された。このような制度の“使い勝手の良さ”の違いは、普及度にも表れていて、イギリスでは成人人口に占める利用者の割合が42.5%(一人当たりの利用額は約400万円)なのに対し、日本のそれはわずか11.4%(同約70万円)とのこと(金融庁「安定的な資産形成に向けた取組み(金融税制・金融リテラシー関連)」平成30年11月16日から引用)。

実は日本のNISAも2024年に制度改正があるのだが、こちらは“『二階建て』になる”とか、“口座開設可能期間が5年間延長される”とか、コマイ話ばかり、非課税期間は5年間のままな一方、ジュニアNISAは廃止になるとのこと。利用率を高めたいと考えるなら、イギリスを見習って非課税期間に“手当て”するのが最も効果的と思うのだが、今の政権与党にも、霞が関のお役人にもその気はないようだ。コロナを巡る一連の対応で、現政権への期待が失望に変わった今、野党にはコロナ以外の部分でも存在感を発揮してほしいところだ。

ロックダウンと「リーダーシップ」

旭川は好きな街の一つだ。若いころは仕事の関係でかなりの頻度で訪れた。当時のお気に入りの航空会社は日本エアシステム。とにかく空いているのがよかった。旭川空港からはバスで市街へ向かう。途中、旭川医大の横を通って、右折した後、坂を下り、橋を渡れば、終点のJR旭川駅前は、もうすぐだ。

 

旭川の事業所長には、随分と良くしてもらった。年齢は自分より一回り位上か。郷里が同じということもあったと思うが、面倒見の良い人だった。仕事が終われば、ほとんど例外なく、飲みに連れて行ってくれた。地元のうまい店で腹いっぱいになった後は、二件目に向かう。宿泊するホテルも、大抵繁華街の近隣に取ったので、“帰りの足”に心配がない。ついつい深酒をし、翌日は酷い二日酔いということも珍しくなかった。そんなわけで、北海道での“夜の街”というと、自分の中では、札幌ススキノよりは、旭川の思い出のほうがはるかに深い。もちろん、札幌に出張する機会も少なくなく、ススキノにもそれなりにお世話になったのだが、旭川の比ではなかった。

 

そんな旭川が、今、医療崩壊の危機に瀕しているという。北海道でコロナ感染拡大が進む中、札幌ススキノについては、飲食店の時短や休業の話をテレビのニュースでよく見聞きするが、旭川は実際どうだったのか。記憶に残る歓楽街の様子や雰囲気からすれば、かなり強力な対策を講じなければ、あっという間に感染が拡大しそうだ。自衛隊に看護官派遣を要請したとのことだが、その時点ですでに十分“非常事態”なのではなかろうか。直ちに“ロックダウン”したとして、それに反対する市民がいるのだろうか。

 

“ロックダウン”というと、どうしても休業した飲食店への補償をどうするのかという話になる。自粛“要請”ですら、あれだけ逡巡する首長たちだから、“ロックダウン”などといったら、とても判断が出来そうもない。しかし、新型コロナウイルスの、感染から診断、発症、そして治癒のタイムラインを考えてみると、たとえば3週間完全にロックダウンし、違反者には台湾のように罰金を科して、ロックダウンが100%遂行されるようにすれば、3週間後には、飲食店も、時短等もない“フルスペック”の営業再開が可能なのではないか。中途半端な“お願い”を繰り返し、国民に“善意”の行動変容を求めるばかりで、いつまで経っても“出口”が見えない状況が続くより、「3週間、完全にロックダウンします。しかし、3週間後には、必ずフルスペックで経済活動を再開させるので、その間は、どうか我慢して下さい。」と言った方が、飲食店の経営者達も、よほど将来に希望が持てるのではなかろうか。

 

首長たちは判断できない、言ったが、彼らだけを責めるのは酷というものだろう。ロックダウンに伴う“痛み”や、それを実行するのに必要な経費の予算規模から考えれば、国が判断すべきなのは明白だ。一方、首相、担当大臣や官房長官の発言を聞くと、“下手なことを言って、言質を取られたくない”と思惑が見え透いている。この“リーダーシップ”の欠如は、どうにかならないものだろうか。そんなことを、つらつら考えたとき、思い出されたのは、またしても、トム・デマルコの「ゆとりの法則」(原題:Slack、訳:伊豆原弓)の中の一節だ。

デマルコによると、リーダーシップには、5つの要素が必要という。一番目の要素は「方向性を明示する」。しかし、残念なことに、「リーダー」からは、この1番目の要素だけが示されることが多い。デマルコはこれを、偽りの「リーダーシップ」という。真のリーダーシップには、そのあとに続く、2番目から5番目の要素を示すことが必須だ。2番目は「短期的には痛みがともなうことを素直に認める」。それでは、3番目から5番目は何か。

3番目は、

フォローアップする。

4番目は、

フォローアップする。

そして、5番目も、

フォローアップする。

 

デマルコは、本書のなかで、偽りの「リーダーシップ」の例として、ジョージ・ブッシュ大統領の、全米教育サミット(1989年9月開催)での「アメリカの若者が2000年までに理科と数学でトップになる」という“宣言”を引き合いに出している(その後も“成績不良”は変わらなかった。のちにブッシュ大統領は、「意思はあるが、財力はない」と語ったという)。しかし、“勝負の3週間”宣言に比べれば、国民が被る損害の何とささやかなことか。

 

今から二か月半ほど前、合流新党と原子力研究で、「日本の新しいトップに対して、国内はもとより、外交においても活躍してほしいと期待するのは、日本人として当然のことだろう。」と書いた。しかし、残念ながら “期待はずれ”だったのは、世論調査での支持率急落が示す通りだ。もし政府与党に自浄作用があるのであれば、直ちにトップを変える手立てを考えるべきではないか。随分前のことだが、ある外資系企業の社長就任披露パーティーに呼ばれたことがあった。非常に盛大な会で、会場は確か帝国ホテルだった。来賓の中には、安倍元首相もいたように思う(もしかしたら記憶違いかもしれないが)。そんな大々的な“お披露目”をしたにもかかわらず、件の社長はその3ヶ月後には、その会社を去っていた。企業(外資系は特に)であれば、そのアサインメントが“間違い”とわかれば躊躇なく更迭に舵を切る。そうしなければ、企業の存続にかかわることがわかっているからだ。だったら国家はどうなのか?コロナが落ち着いたら、海外移住先を真剣に考えるか、などと思ったりする今日この頃だ。