アラ還オヤジの備忘録

雑感や、その他諸々。

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ネットスーパーに垣間見えた企業カラー

ネットスーパーを使い始めたのは昨年8月下旬から。コロナ第二波が取り沙汰されていたころだ。現在の“第三波”に比べれば可愛いものだったのだが、それでも当時は、外出は可能な限り控えたいと、自宅が配達区域に入っているネットスーパーをググったところ、幸いにも1社だけ引っかかった。西友である。近所というわけではないが、そう遠くはないJRの駅前にある店舗から、自宅に配送してくれるという。

それまで、その西友の店舗に足を運んだことはほとんどなかった。もっと近くに他のスーパーもいろいろあるということもあったのだが、正直なところ、その店に対してあまりいい印象を持っていなかったのだ。

それまで一、二度、使ったことがあったのだが、建物は古いし、店内は暗い。動線もあまり買いやすいとは言えず、敢えてその店を利用する理由が見当たらなかった。それでも、ネットスーパーということであれば、そんなデメリットは何の関係もない。早速、ネットで注文することにした。二日後の夕方に配送時間を指定して、あとは商品の到着を待つだけだ。

さて、初めて西友のネットスーパーを使った結果だが、予想外の好印象。ネットを見ると、いろいろクレームが書き込まれているが、自分の場合は、そのようなことはなかった。(これなら使えるな)と、その後は、月に2~3回のペースで使い続けていた。

 ところが、今月の緊急事態宣言で状況が激変した。何が変わったか。配達日の指定ができないのだ。配達日を選択する画面を何度もチェックするのだが、すべて×印で埋まっている。これには参った。そもそも“第二波”がきっかけでネットスーパーを使い始めたのに、深刻さがその比ではない“第三波”下で使いえないのでは、目も当てられない。

さて、どうするか。思いついたのは(他のネットスーパーが使えないか、ダメ元で調べてみよう)だ。昨年の8月から、もう随分と時間も経っている。もしかすると、どこか他の店もネットスーパーを始めているかもしれない。早速、ググってみると、ありました。今度はイオン。昨年8月にネットで見たときには、自宅の住所は配達区域外だったのが、いつの間にか区域内の入っていたのだった。

こちらは、まだ地域で浸透していないのか、翌日配送も選択可能な状態だった。早速ネットで商品を注文したのだが、それまで利用していた西友のネットスーパーと比べて、幾つか気が付いた点があったので、以下に比較してみたい。

ウェブサイトの出来

これは、西友の勝ちと言っていいだろう。まず、レスポンス。西友の方はクリックしてから選択されるまでにタイムラグがないが、イオンの方は一呼吸おく感じで、(ちゃんとクリックされているのか)と心配になるくらいだ。実は西友のネットスーパーの正式名称は“楽天西友ネットスーパー” 。楽天が入っているのだ。ネットビジネスのプラットフォーム構築はお手の物だろう。サイトのレイアウトについても、西友の方が一枚上手な印象だ。イオンに比べて文字も大きく見やすい印象なのだが、だからと言って情報量を絞っている風でもない。ウェブサイトについては楽天グループ=西友に一日の長があるようだ。

品揃え

ネット上には、“ネットスーパーは品数が少ない”という書き込みがあったりするが、自分的には、西友、イオン共に、品ぞろえは十分、というか、むしろ多すぎると感じるほどだ。たとえば、 試しに“チョコレート”で検索すると、イオンは303件、西友に至っては442件ヒットしたが、その中から自分の“お目当て”の品物を見つけようとすると、結構な時間がかかる。特にイオンのウェブサイトでは、配達日時を選択してから1時間以内に注文を完了する決まりになっていて、30分経過すると、ご親切にも「残り30分です」というアラームが出る。(西友にも制限時間があったのかもしれないが、約半年使用した中では、そのようなアラームが出たことはなかったし、制限時間があることを意識させられたことはなかった。)この“制限時間”問題は、レスポンスとも関係するが、実はもっと深刻な事態に遭遇する可能性もある。それは、後ほど。

価格

これについては、同じ品物を同じタイミングで比較したわけではないので、正確なところはわからないが、ガッツフィーリングでは、大きな違いはないように思う。ただ、西友は、自社ブランドに“みなさまのお墨付き”というのがあり、ウェブ上でも、それをかなり強めに“推して”くる。ちょっと前にテレビの情報番組でも取り上げられていたが、クオリティはなかなか高く、値段的にはかなりのお得感がある。自分も“みなさまのお墨付き”シリーズから品物を選択することが多い。イオンにも自社ブランドはあるが、西友ほどには力が入っていない雰囲気だ。結果、西友の方がやや安めということになろうか。

さらに両社には決定的な違いがある。送料だ。西友は五千五百円以上買い物をすれば、送料無料だが、イオンはどれだけ買っても一回330円(税込)。たかが330円と思われる方もあろうが、3回使えば千円弱。馬鹿にできない金額だ。しかも、自分の場合、まとめ買いがほとんどなので、購入金額は、ほぼ間違いなく五千円を超える。私のような使い方では、西友の方がお得と言えるだろう。

支払い

どちらのネットスーパーでもクレジットカードで支払った。使えるカードに特に制約はないようだ。(だが、これには“落とし穴”があった。それは後で説明する。)

実は、イオンの実店舗で買い物をするときは、いつもイオングループ電子マネーの“WAON”で支払っていて、ネットスーパーでもWAONで支払いたかったのだが、使うことはできなかった。正確に言うと、使えないことはないのだが、その場合は“玄関先WAON”を選択するしかない。要は、配達員が来たら、玄関先に出て、端末にタッチしろと言うのだ。このシステム、“このご時世に、どうなのよ?”と思うのは私だけではないだろう。コロナ禍で、できるだけ他の人との接触機会を減らすために、わざわざネットスーパーを使っているのだ。それを、自社の電子マネーを使うために、玄関先まで出て配達員とコンタクトしろというのは…。システム上、何か制約があるのかもしれないが、正直、“イケてなさ”を感じざるを得ない。

 

さて、比較はこれくらいにして、イオンのネットスーパーでの買い物の話の続きに戻る。ウェブ上で商品を選択後、支払い画面に移り、必要事項を入力すれば、あとは“注文”ボタンをクリックすれば完了である。ところが、ここでトラブルが起こった。どうしたわけか、注文ボタンを押すことができないのだ。何回クリックしても、注文確定にならない。最初の三回くらいは、何が起こったか、全くわからなかった。四回目くらいで、ようやく画面の上部に小さな赤字で“支払方法を選択して下さい”とアラームが出ていることに気が付いた。しかし、支払い方法はクレジットカード払いのところのラジオボタンがしっかり黒く反転している。(支払い方法はちゃんと選択してるだろ、このスカタン!!)と半ば切れそうになったところで、様子がおかしいことに気付いたカミさんが画面を見て一言。「“オーナーズカードをつかう”というのは何?」。

以前、素人投資家が憂う日銀のETF購入で、NISAが始まって以降、株を買っていると話したが、イオン株もその中に入っていた。イオンの株主優待は、買い物をした際に“オーナーズカード”を提示すれば、後日3%~のキャッシュバックが得られるというのがウリだ。イオンのネットスーパーのサイトでも、オーナーズカードの番号を登録する画面があり、自分も番号を入力していた。注文画面では、当然“オーナーズカードをつかう”を選択していたのだが、カミさんは、それを外してみろという。(そんなことは関係なかろう)と思いつつも、大人しく“指示”通りに“オーナーズカードをつかわない”を選択すると、あら不思議。無事、注文を完了できたのだった。

ちなみに、配達日時選択以降のタイムリミット1時間のうち、残されていたのはわずか10分ほど。それはそうだろう、注文確定できずにあれやこれや試すのに20分近くはかかってしまった。全く時間の無駄である。

注文確定後に、原因をネットで調べてみると、衝撃の事実が判明した。なんと、キャッシュバックの株主優待の恩恵を受けられるクレジットカードは、イオンが発行しているものだけというのだ。自分が、これまでそれに気付かなかったのは、実店舗ではWAONを使っていたからだ。現金とWAONも、イオン発行のクレジットカードと同様に、株主優待が使えるらしい。しかし、ネットスーパーでは、実質イオンカード一択だ。

それにしても、自社のカード以外は、株主優待も使わせないというのは、かなりの“ちからわざ”である。ビジネスであれば、顧客が自社のサービスを使うよう誘導するのは当然アリだが、それにしても“限度”というものがある。しかも相手は株主だ。古い日本企業には、今でもたまに“顧客の利便性より、自社の思惑が勝る”商売を見かけることがあるが、これも、その類(たぐい)と言えそうだ。そもそもウェブ上のアラートが、“オーナーズカードはイオンのクレジットカード以外使えません”ではなく、“支払方法を選択して下さい”としているあたり、“確信犯”であることを疑わせる。先の“玄関先WAON”もそうだが、イオンには、どうにも“昔の会社”感が否めないのだ。

 

という訳で、自分の場合は、ことさらイオンのネットスーパーを使う理由は見当たらず、また、ネットスーパーで買い物をするためだけに、新たにクレジットカードを作るつもりは毛頭ない。緊急事態宣言から2週間ほど経ち、西友ネットスーパーのサイトを再訪してみると、“お届け日時”の選択も、以前ほどではないが、かなりの選択肢が“〇”のまま残っていた。イオンへの“浮気”は辞め、また、暫くの間は西友のネットスーパーを使おうと思ったのだった。

それにしてもイオンさん、最近の株価の好調は、株主としてはありがたいことですが、利用者目線を欠いたオペレーションを続けていると、そのうち西友楽天に寝首を掻かれてしまいますよ。以上、株主からの“ご注進”でした。

ネルソン・マンデラとポケトーク

今から一年ほど前、大学時代の同期数人で久しぶりに飲む機会があった。まだ、コロナの足音もはるか遠くにしか聞こえていなかった頃だ。

集った中の一人(ここでは“A”とする)は大学時代の研究室も同じで、就職した業界も同じ。自分の結婚式にも出席してもらったのだが、その後の人生は、大きく違った。最初に就職した会社を飛び出し、ベンチャー外資を転々とした自分と違い、Aは一つの会社を勤め上げ、今では国内有数の企業のボードメンバーの一人だ。

そうは言っても、元は同じ釜の飯を食った仲、特にお互い気を遣うでもなく、会えば40年前そのままの関係で馬鹿話ができる。彼も、「本当の意味で気兼ねなく、腹を割って話せるのは大学時代の仲間くらい」と言う。大企業の中を生き抜き、出世の道を上り詰めていくには、それ相応の苦労があったに違いない。

そんな彼も含めて、皆でビールのジョッキを傾けていると、なぜか話題が語学のことになった。するとAが、「もう語学もビジネスには必要なくなるだろうな。」と言う。(おいおい、Aともあろうものが、それは違うぞ。)と思いながらも黙って聞いていると、彼が言うには、AIの急速な発達を考えれば、機械による同時通訳も、そう遠くない時期に一般化するというのだ。

 

う~ん、確かにそう言われてみれば、そうかもしれない。明石家さんまがコマーシャルに出ていた「ポケトーク」は、なんと82言語に対応しているという。どういうアルゴリズムをつかっているのか詳しいことは知らないが、製品紹介のウェブサイトには「夢のAI通訳機」という謳い文句も踊っているから、何かしらAI絡みなのだろう。因みに公式サイトでのお値段はエントリーモデルで19,800円。Amazonで紹介されている高機能版も3万円弱だ。

大枚叩いて英会話教室に通っても、英語が上達したと実感できるようになるには、それ相応の時間もかかる。“ペラペラ”レベルに到達するのは、はるか先だ。イチキュッパで「夢のAI通訳機」が手に入るご時世なら、「語学はビジネスに不要」という考えも“アリ”と言えるだろう。

一方、ポケトークに懸念がないわけではない。実は、数年前、カミさんと都心の鉄板焼きのレストランで食事をしていた時のこと。テーブルごとに料理人がつき、目の前で調理してくれる、よくあるタイプの鉄板焼屋だったのだが、隣のテーブルで、ドイツ人カップルと思しき客が、ポケトークで“悪戦苦闘”しているのを目撃したことがあるのだ。

82言語に対応しているのだからドイツ語なんてお手の物、と思うのだが、カップルのうち、男性の方が、ポケトークで日本人シェフの説明をドイツ語に翻訳しようとしても、どうにも上手くいかない。隣で聞いているこちらが、ハラハラするほどなのだ。流石のポケトークも、料理の“ニュアンス”の表現までは、まだ手が届いていなかったようだ。では結局どうしたか。ドイツ人の客とシェフがどちらも英語を話し始めたのだ。シェフは英語に堪能という風でもなかったが、都心というレストランの場所柄、英語での料理の説明を迫られることも少なくなかったのだろう。隣で聞いていても英語でそつなく料理を説明している。客の方も“最初から英語で話せばよかった”と満足な様子だ。(来日するようなドイツ人であれば、まあ、英語も普通に話すだろう。)

それからしばらく経っているので、ポケトークも随分進化しているかもしれないが、やはり機械翻訳には限界がある気がする。近いうち、翻訳のレベルは各段に進化し、鉄板焼屋で困ることはなくなるかもしれないが、人と人のコミュニケーションの中で、言葉が果たす役割には、翻訳される“意味”以上のものがあるのではないか。

 

話は少しずれるが、自分の語学のスキルアップは、もう随分前からネットに頼り切っている。中でもBBCが提供しているBBC Learning Englishは“英会話教室いらず”と言っていいほど充実している。先ほど“大枚叩いて英会話教室に通っても…”と書いたが、実は自分は自腹で英会話教室に通ったことはない。それでも、ここ数年は、海外出張の際は、一人きりで移動、現地に行っても日本人は自分一人だけ、というケースがほとんどで、それでも何とかなっているのは、BBC Learning Englishのおかげと言っても過言ではない。

そんなBBC Learning Englishが最近6 Minute Englishというシリーズにアップロードしたトピックに、For the love of foreign languagesというのがあった。その中で、こんなセンテンスが紹介されていた。

"If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart."

言葉の主は、南アフリカ初の黒人大統領、ネルソン・マンデラ。ポケトークがどれほど上手に翻訳できたとしても、それが“心”に届くことはないのではなかろうか…。

 

Aくらい偉くなれば、海外出張の際にも“お供”が付き、外国人との会話も同行した社員が通訳してくれるに違いない。そうであれば、確かに「語学は不要」かもしれないが、“自助”に頼るしかない自分には、まだ暫くBBC Learning Englishにお世話になる状況が続きそうだ。

クラシックコンサートとSNS

以前、5G対応ガラホはかなわぬ夢かで、自分が今もガラホを使い続けているとお話した。“自分の携帯の使い方では、通話、キャリアメール、ショートメールがあれば事足りる”と説明したが、要はSNSとも縁遠いということだ。FacebookもLINEも使っていない。実は手持ちのガラホにはLINEのアプリはデフォルトでインストールされていて、使おうと思えば使えないこともないのだが(一応アカウントも持っている)、そもそもLINEでの"pushy"なコミュニケーションの在り様が自分向きとは思えないこともあり、「スマホを持っていない」ということが、LINEをやらない口実にもなっている。

そんななかで、唯一使っているSNSツイッターなのだが、使い始めた理由は“災害時に繋がりやすい”ということだった。2011年の震災時、電話はおろか、電子メール(久しぶりにこの単語を使った気がする)や携帯のキャリアメールも、軒並み連絡不能になった。そんな中、SNSは比較的つながりやすかったという話を後で聞いて、(それなら念のために入れておくか)ということで、始めたのがツイッターだったのだ。

しかし、使い始めたのがそんな理由だから、フォローしているアカウントも限られている(“緊急時の連絡”ということであれば、最低限、家族のアカウントがわかっていれば用が足りる)のだが、そんな数少ないアカウントの中に、新日本フィルハーモニーのアカウントがある。

 

オーケストラのアカウントをフォローして、どんなメリットがあるのか、といぶかる方もいそうだが、コンサート情報等をタイムリーに発信してくれるので、結構重宝している。実は昨年末に、その重要性を認識させられる出来事があった。

新日フィルは、例年大晦日の晩にジルベスターコンサートを開催している。昨年もコロナ禍のなか、対策を取ったうえで開催されることがアナウンスされていた。自分は年末年始は寝正月を決め込んでいる方なので、これまでこのジルベスターコンサートに足を運んだことはないが、楽しみしていた方も多かっただろう。それが、開催三日前の12月28日に、指揮者の宮川彬良氏を含め、出演予定者数人のコロナ感染が明らかになり、結果、コンサートは中止を余儀なくされたのだった。

既に述べた通り、自分はコンサートに出向く予定もなく、当然チケットも持っていなかったのだが、この“公演中止”の情報をツイッターで見たとき、(この情報を得られず、三日後の当日に、コンサートホールまで出かけてしまう客が結構いるのではないか)と思ったのだった。そもそも、クラシックコンサートのオーディエンスというのは、それなりに年齢層が高そうに思える。実際クラシックのコンサート会場に行っても、アラ還の自分より年上と思われる方々が多い。そんな年齢層の皆さんが、ツイッターで発信された公演中止の案内をタイムリーに見ているとは、想像し難い。もちろん主催者側はツイッター以外のSNSや、さらにはSNS以外のチャンネルを通してチケット購入者全員への周知を試みたに違いないが、現実問題としては、わずか2~3日で、すべてのチケット購入者にアクセスするのは難しかったのではなかろうか。主催者側は大変なご苦労だったことは想像に難くない。

 

話は変わるが、昨今は、住民への連絡や生活情報の提供について、SNSを活用している地方自治体も多い。その一方で、それまで用いられていた紙媒体等の情報提供については、“合理化”の名のもとに、発行頻度の減少や体裁の簡素化が進み、さらにはSNSを通してでしかアクセスできない情報すら出てきている状況だ。そんな“情報の電子化”の流れの中では、SNSの使い方も含め、ITリテラシーの不足は、それこそ“命取り”になりかねない。

SNSの活用は、勿論良いことだし、推進すべきことだと思うが、それと同時に、そのような世の中の進歩に乗り切れていない世代に馴染みのある情報チャンネルについても、継続的な改善と存続への配慮をお願いしたいものだ。

睡眠薬混入事故と東海村臨界事故

水虫治療薬に睡眠導入剤の成分が混入した問題、昨年12月11日の発覚後、様々な報道がなされているが、その原因については、未だに納得できる説明が聞かれない。直近の報道では、有効成分の容器と、混入した成分の容器が、同じ棚の上下に並べて置かれていたとのことだが、果たしてそれが実際に作業した社員の問題なのかどうか、現時点では自分にはわからない。というのは、もしその“置き方”が、会社で定められていたのなら、社員はそれに従っただけだからだ。

医薬品の製造においては、事細かに“SOP”が定められているはずだ。SOPとは、Standard Operating Procedures、すなわち“標準作業手順”のこと。有効成分の取り扱いについては、その容器の種類、置き場所、さらに置き方まで細かく定められているはずだ。普通に考えて、製薬会社の工場に勤務する人間が、自らの“独断”でSOPに外れた手順を取るとは考えにくい。昨日の報道では、会社側が、それぞれの有効成分が入っていた容器は「大きさや形が全く異なって」おり、「一般的な感覚では間違えないレベル」と説明しているそうだが、この説明を聞いても、「一般的な感覚では間違えないレベルの大きさ・形の違いなので、同じ棚に並べておいても問題ない」と考え、その結果、SOPには「同じ棚に置く」と記載されていたのではないか。あくまで自分の想像だが、そんなふうにも思える。

一方、「関係者は『ヒューマンエラーを起こしやすい状態だった』と危険性を指摘している」とのことだが、医薬関係者でなくても、「効果も、作用の強さも全く違う成分を並べて置くのはどうなのよ?」というのが、まあ普通の感覚だろう。しかし、製造工場のような“閉じた”世界の中では、“普通”の感覚から、時にずれていくことがあるのは、何も医薬品業界に限ったことではない。しかし、そんな“ズレ”は、医薬品製造においては、起きてはならない事故に直結しかねない。今回は、まさしくそのような事例なわけだが、一方、そんなずれを“検知”する仕組みも当然あるわけで、今回、どうして、その“仕組み”が機能しなかったのかについての検証も必要だろう。

例えば、社内監査部門は、SOPの作成に対して、どのような役割を果たしていたのか、或いは社内監査部門による現場のチェック・訪問は、どのような頻度、内容だったのか。

さらに言えば、行政の関わりについても検証が必要だろう。医薬品の製造所には定期的に行政当局の査察が入っていたはずだ。その時、当該SOPは査察の対象だったのか、なかったのか、もし、対象であったなら、それに対してどのような指摘・指導をしたのか、或いはしなかったのか、さらに査察全体を通して、当該事業所に対する評価はどのようなものだったのか。万が一、査察の結果が「問題なし」、「優良事業所」の類であったとしたら、そんな「ザル」査察がまかり通ってしまった理由も詳らかにすべきだろう。

 

少し前の報道の中には、厚生労働省が「社風や経営層の姿勢が根底にある」と宣ったともある。その理由は「事案発生以降、経営層が誰も現場を確認していない」ことらしい。まあ、経営陣が現場を確認すれは、なおよかったとは思うが、会社組織のなかで、どのレイヤー(階層)の人間が現場を確認するかは、当該事案についての知識レベルも考慮されるべきだろう。例えば、東日本大震災の際、時の首相は福島第一原発に直接出かけたがったらしいが、それがどれほど実効力があることなのか、当時も疑問に思ったものだ。社長が現場を見に行かないから「社風が原因」と決めつけるのも如何なものか。どうも、今回の事故を「特定の会社の、イレギュラーな問題」として片付けようとしている意思を感じてしまうのだが、根はもっと深いところにあるような気がしてならない。

 

そんなことを感じながら、ふと思い出したのは、東海村臨界事故だ。発生したのは1999年9月30日というから、もう20年以上前のことだ。JCO東海事業所の核燃料加工施設内で、核燃料を加工中にウラン溶液が臨界に達し核分裂連鎖反応が起き、作業員2名が死亡、1名が重症となった。原因は、硝酸ウラニル溶液を、沈殿槽にステンレスバケツで流し込んでいたから。この“バケツ”での作業については、当時もずさんな作業工程管理の証左として、繰り返し報道されていたものだ。

しかし、その後、事故の検証が進むにつれ、実態は随分と違ったものだったことが明らかになる。「浪費なき成長」(内橋克人著)には、次のような記述がある。

「あの事故はそもそも、まじめな努力家たちが、いかに作業を効率的に行うか、いかに作業効率を上げて、合理化に貢献するか、企業に貢献するかということに、知恵を絞り、貯塔を利用する代わりに、ステンレスバケツを使って直接、沈殿槽に溶液を入れる、という提案をし、採用されたというのが真相です。」

そして、この事故の根本原因は、行き過ぎた、かつ間違った方向での「効率追求」にあったと結論付けている。

 

今回の混入事故を起こした小林化工は、日本ジェネリック製薬協会(GE薬協)の会員会社だ。 近頃は、“ジェネリック”という言葉も、だいぶ市民権を得てきたが、日本語では“後発(医薬)品”、医療費削減の切り札として、国もその普及と使用率の向上の為に様々な施策を講じてきた。その結果、昨年12月の厚生労働省の発表によれば、2020年9月時点でのジェネリックの使用率は78.3%だったとのこと。政府目標の80%に届かなかったが、かなりの使用率だ。先発(医薬)品との価格差を考えれば、この“ジェネリック推進” の方向性は今後も続くだろうし、間違ってもいないと思う。一方、そもそもの出発点が“医療費削減”であることから考えれば、ジェネリック市場全体が熾烈な“コスト削減”競争に晒されていることは容易に想像できる。

GE薬協のホームページを見ると、 “効率”という文字が幾度となく出てくるが、それが“行き過ぎた、かつ間違った方向”でないことを心より願う。

“ほっこり”に遺憾

今年の三が日は初詣に出かけることも出来ず、ウチに籠ってテレビ三昧だった。といってもバラエティー番組は苦手なので、録り貯めていた映画やドラマなどを片っ端から観ていたのだった。

年末年始ということで、テレビ各社とも力の入ったドラマや、大ヒットした映画等、見るべきものはいろいろあったのだが、その中で、一番楽しめたのはと聞かれれば、テレ東で放映された「絶メシロード」の特別編ということになろうか。

 

このドラマ、昨年頭から同局の深夜ドラマ枠で放映されていた。既視感のあるグルメ番組の体(てい)を、最初は(〇独のグルメみたいなものだろう)と何の気なしに見ていたのだが、そのうち、その“脱力さ”加減が、就寝前に観るにはちょうど良く、結局、全話を観ることになってしまった。本編は昨年春には終了したのだが、今回は新春特番が放映されるのを新聞のテレビ欄で発見し、予約したのだった。

内容は、昨年放映の本編とほぼ同じ進行ながら、“元旦スペシャル”ということでエピソードは二つ。特に、後半の軽井沢の洋食屋の話がよかった。一緒に観ていたカミさんは、「このマスター役の俳優さんは久しぶりに見たわね。誰だったかしら?」などと宣っていた。(“トミーとマツ”に出ていた国広富之に決まってるだろう)と心のなかでは毒突きながらも、「そうだねぇ」などと生返事をしながら、最後まで楽しんだ。

 今回の二つのエピソードもそうだったが、ドラマ全体のトーンとしては、コミカル&ハートウォーミングな内容に、“店の終わり”というペーソスが隠し味として効いているというところか。もしかすると、このドラマの雰囲気を言い表すのに“ほっこり”という言葉は使われる方もいるかと思うが、実は、自分はこの“ほっこり”という言葉が苦手だ。

 

そもそも、この“ほっこり”、自分が子供の頃、というより大人になってからも、暫くはあまり使われることがなかった言葉と思う。では、最近出てきた言葉なのかというと、そうでもないようだ。手元に昭和51年(1976年、今からおよそ44年前だ)出版の広辞苑第二版補訂版があるが、それを見ると、「ほっこり」の項があり、「①あたたかなさま。ほかほか。」とある。因みに②は“(上方方言)やきいも”、③はなんと“疲れたさま”である。

 

そんな“ほっこり”が、ある時から急に使われ出すようになった印象なのだが、一体いつ頃からだろうか?思い出されるのは、モヤモヤさまぁ~ず2のアシスタントが大江麻理子アナから狩野恵里アナに変わった頃のことだ。確か、狩野アナになってから間もない頃の放映だったと思うが、何かの感想に、狩野アナが“ほっこり”という言葉を使うと、さまぁ~ずの二人の反応は(むむっ…)という微妙なものだった。“ほっこり”に対するその当時の自分の反応もそのようなものだったので、妙に記憶に残っているのだ。その後、“ほっこり”という言葉は、度々聞くようになったが、自分の中での印象は従来から変わらないままだ。聞けば何となくこそばゆく、使うことは憚られるような…。話は変わるが、狩野アナは最近あまり見かけなくなったように思うが、如何されているのだろうか。自分の役回りに徹し、求められれば躊躇なく「クックドゥードゥルドゥー」と大声で叫べるような、真っすぐで生真面目なキャラは、なかなか得難い人材と思っていたのだが…。

 

そんな“ほっこり”と同じく、自分の中で引っかかっている言葉が“遺憾”だ。何か“やらかした”時にこの言葉を使うのは、大企業から、政治家、官僚、はたまた警察、検察に至るまで、実に幅広い。一方、(本当に意味が解っているのか?)と首を傾げたくなるような使い方を耳にするのも少なくないと感じる。再び広辞苑第二版補訂版を紐解いてみると、こうある。

 

い・かん【遺憾】 のこりおしいこと。残念。気の毒。

 

ここには、“謝罪”の意味は全く含まれていない。やらかした当事者・関係者が「遺憾だ」などと言うのは、明らかに使用法を間違っている。遺憾なのはこちら側であって、そちらが言うべきは「申し訳ございません」だろう。普段頭を下げることに慣れていない組織のトップが、意味もよく解らず、遺憾と言っておけばそれで済むと思っているのだろうが、そもそもそんな人間が上に立つ組織は、ほぼ間違いなく“腐って”いると断言できる。自らの組織の不始末を公の前で謝罪するからには、よほど言葉を慎重に選んだうえでその場に臨むというのが組織の長のあるべき姿だろう。それが出来ないトップが率いる組織のレベルなど、たかが知れている。

 

一方、何か“やらかされた”際にもこの言葉を耳にすることがある。例えば主権を侵害された国の政治家が、相手国に対して「遺憾だ」などと言うケースだ。しかし、これも随分とおかしな使い方だ。領海侵犯されたときに「残念です」という反応で、本当によいのだろうか?官房長官が記者会見で「遺憾だ」と言った内容が、先方のお国の言葉で「残念です」などと翻訳されていたとしたら目も当てられない。「そんな腰の砕けた反応なら、もっとやっても大丈夫」と思われても仕方なかろう。

 

 国を率いるトップの皆さんは、国民から「遺憾だ」などと言われることのないよう、くれぐれもご注意を。

アビガン承認見送りとローレンス・クラインの“悪徳”

先週は、新型コロナの感染急拡大(爆発?)や「桜を見る会」を巡る安倍晋三前総理秘書の略式起訴と本人の衆参両院議院運営委員会に出席等、いろいろなニュースがあったが、自分の中で一番刺さったのは、「アビガン承認見送り」だ。

厚生労働省は12月21日、ファビピラビル(商品名アビガン)の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)治療薬としての薬事承認を見送ったとのこと。一体何があったのか?

アビガンと言えば、そもそも前首相が在任中に記者会見で「5月中に承認」などと言っていたのが、その後のすったもんだで、最終的に製造元の富士フイルム富山化学が効能・効果追加申請したのが10月16日。それが二か月以上経って、承認“見送り”とは。

 

報道によると、アビガンの有効性・安全性を審査した薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会で、試験デザインが「単盲検比較試験」だったことが問題にされたとのこと。しかし、富士フイルム側のコメントによれば、試験計画は「PMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)の合意を得ていた」という。もし、それが本当であれば、一体何の為の合意だったのか?因みにこのPMDA、ただで相談に乗ってくれるわけではない。PMDAのウェブサイトによると、医薬品申請前相談(希少疾病用医薬品以外)は、一相談当たり9,497,400円。ほぼほぼ一千万円だ(希少疾病用医薬品は7,130,100円。因みに“希少疾病”とは、国内の患者数が五万人以下の疾患のこと)。アビガンでの“PMDAの合意”が、どのような経緯で得られたのか報道には記載がないが、相談料をたんまり取られたうえでの“手のひら返し”であれば目も当てられない。自分は富士フイルムには縁も所縁もないが、心からの同情を禁じ得ない。

 

そもそも、その薬がヒトの役に立つか否かを、どうやって判断すべきなのか。教科書的には“二重盲検”比較試験で“統計的有意性”が証明される必要がある。今回の審議会の結論も、そういう判断基準によるものと言われれば、富士フィルムとしては反論が難しかろう。しかし、そのような“教科書”的な判断基準に合致する試験計画を、いつも組めるわけではない。“二重盲検”ということは、医者も患者も、飲んでいる薬が“本物”か“偽物”か、わからないということだ。いわゆる生活習慣病のようなものならまだしも、生死を分けるような疾患で、自分の飲んでいる薬が“偽物”かもしれないという状況を想像してほしい。これは「単盲検」の状況だ。そんな治験への参加に同意された患者さん達には頭が下がる思いだ。しかし、その状態からさらに、薬を投与している医者も“本物”か“偽物”か、わからないとしたらどうか。私なら、今の新型コロナ感染状況の中では、同意書にサインすることは到底できない。

 “統計的有意性”を証明するためには、薬の“パワー”に応じた症例数が必要だ。生活習慣病をたびたび引き合いに出して申し訳ないが、そのような患者数の多い疾患であれば問題ないが、新型コロナのような疾患では、かなりの制約があることは容易に想像できる。そんな中、“統計的有意性”を示すことができる症例数を得るために、試験デザインを「二重盲検」でなく「単盲検」にしたとして、それを責めることができるのだろうか。

 

一方、この“統計的有意性”が“金科玉条”化していることについても問題がある。こんなことを言うと、“素人が何を言っているのか”と統計学者たちから冷笑されそうだが、実はこの指摘は私によるものでない。ディアドラ・N. マクロスキーは、その著書「ノーベル賞経済学者の大罪」(原題:The Vices of Economists-The Virtues of the Bourgeoisie、赤羽隆夫訳)の中で次のように述べている。

「ある点で、私たちは機械的な統計処理から離れ、『その何が重要なの?』という常識から発する疑問を問い掛けるべきである。」

「重要な点はどれだけ大きい効果がえられるかである。効果の大きさはどれほど人間に役立つかによって判断されるのであり、決して恣意的に定義された『統計学的有意性』によって判断されるものではない。」

 

さらにマクロスキーは、「統計的有意性」(statistical significance)を「科学的重要性」(scientific significance)と同一視(混同)したとして、これをローレンス・クラインの「悪徳」と表現している。ローレンス・クラインといえば、第12回目のノーベル経済学賞受賞者だ。このように書くと、「マクロスキーの主張は、経済学についてであって、医学に対してではないだろう」と思われるかもしれないが、さにあらず。マクロスキーは「悪徳」の事例として、医学に関するエピソードを、これでもかというほど紹介している。まるで、経済学批判の体を取りながら、実は医学に対する批判が目的では、と勘繰りたくなるほどだ。

蛇足になるが、本書のなかでマクロスキーは、統計学の専門書からの引用として、こんな指摘もしている。

「標本規模が十分に大きくなれば、すべての回帰曲線は有意になる。」

結局、どれだけ患者数を集められるかどうかで、医薬品開発の成否が定まるということか。

 

マクロスキーの主張が、所謂「主流派」でないことは明白だ。しかし、新型コロナの感染が急拡大する中で、統計学的に“理想的”な条件を満たしていないという理由だけでアビガンの承認を見送るというのは、まさに「どれほど人間に役立つか」という視点が欠落した“悪徳”の結果と感じるのは、私だけだろうか。

マーラーとたいやきくん(そして、“一流の政治家”がしないこと)

以前、“目覚めの音楽”のおすすめは?で、毎朝、目覚まし時計代わりに、レスピーギ作曲の「ローマの噴水」のCDをかけている話をしたが、その時、「以前は別の曲だった」と書いた。今日はその別の曲の話。

 

「ローマの噴水」が気に入っている理由は、曲が始まってからしばらくの間は寝床で微睡んでいられるような曲調が続き、その後、寝床を出ざるを得ないような大音量になるところだが、前の曲も同じ理由からの選曲だった。“しばらく静かで、その後大音量”ということだけであれば、いろいろな曲があると思うが、できれば目覚めにふさわしい“明るい”曲を選びたい。コードはメジャーで、“大音量”のパートは、元気の出そうな旋律のもの。そんな基準で選んだのは、マーラー交響曲第一番「巨人」だった。

 

この曲が自分のなかで印象付けられたのは、あるテレビ番組によってだと思う。その昔、「オーケストラがやってきた」という音楽番組があった。司会は山本直純。(呼び捨てはまずいか。ちょっと気になるがそのまま続ける。)ある回で、この曲が取り上げられたのだが、その紹介のされ方が、なにしろユニークだった。当時流行っていた「およげ!たいやきくん」の歌詞を、第一楽章の主要主題にそのままそっくり乗っけたのだ。すると、なんと“まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの…”という歌詞が、主題のメロディーにぴったりと収まるではないか!まさかそんな、と思われる方は、是非試してほしい。「およげ!たいやきくん」のメロディーのコードはマイナーで、あの歌詞も一層哀愁漂う感じだが、マーラーの方はメジャーコードだ。元のメロディーと比べると、随分前向きな印象に変わるのだった。

 

そんな「巨人」を目覚めの音楽として聴くために選んだCDは、ズービン・メータ指揮、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団の演奏によるものだ。

録音は1974年12月、場所はイェルサレム。「巨人」のような人気曲は、様々な演奏家によるCDが数多あるが、その中でメータ&イスラエル・フィルというチョイスは“渋め”というべきか。演奏の印象としては、ややテンポが速いこととも相まって、当時のメータの“勢い”を感じさせる。“名演”と言っていいのではないか。

 

それにしても、1974年にイェルサレムで録音というのは、当時の中東情勢を思うと、なかなか興味深い。

1973年10月、イスラエルは、エジプトとシリアから奇襲を受けた。所謂「ヨム・キプル戦争」だ。“ヨム・キプル”、または“贖罪の日”と呼ばれるユダヤ教の祭日に、不意を突かれたイスラエルは、開戦当初、苦戦を強いられた。当時のイスラエル首相はゴルダ・メイヤ。女性である。しかしその後、アメリカからの支援もあり、最終的にはイスラエル軍が逆転勝利を収めた。この時アメリカが支援を決める経緯については、当時の米国大統領であるリチャード・ニクソンの著書、「指導者とは」(原題:LEADERS、徳岡孝夫訳)に詳しい。

支援した当事者の回想だから、その内容は(ここまで書いていいのか?)と思うほど詳細で、当時の緊迫度がこちらに伝わってくる。因みに、記載の個所は「新しい世界」の段のゴルダ・メイヤについての部分ではなく、「ニキタ・フルシチョフ」の段だ(このあたりに、ニクソンという人の政治思想が垣間見える)。もちろん、ゴルダ・メイヤについての記述の中でも、ヨム・キプル戦争については触れられているのだが、こちらは、メイヤ首相からアメリカへの感謝の言葉が中心だ。

そんな「ヨム・キプル戦争」の翌年、メータはこの録音をしたのだ。街のそこかしこで、戦争の名残を感じただろう。そんな中、当時まだ38歳だったインド人指揮者は、一体どんな気持ちで、タクトを振ったのだろうか…。

 

因みに「ヨム・キプル戦争」当時のエジプト側の大統領はサダト。「指導者とは」の中には、サダトについての記述もあるが、その中に、ニクソンによる興味深い言葉があるので、それを紹介しておしまいにする。

 

サダトは農民の出であることを隠さなかったが、べつに自分が「庶民の一人」であることを国民に誇示しなかった。一流の政治家は、あまりそれをしないものである。