アラ還オヤジの備忘録

雑感や、その他諸々。

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ヘンデルとクインシー

映画「ディープ・インパクト」で、宇宙船「メサイア号」の乗組員の軍医がデューク大出身という設定だったと、隠れトランプとアメリカ人上司の中で書いたが、“メサイア”と言えば、今月28日に予定されていた、新日本フィルハーモニーの定期演奏会「ジェイド」シリーズの、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」公演が中止されたのは本当に残念だった。コロナ禍で仕方ないとはいえ、この公演は、新日本フィルの2020/2021 シーズンのプログラムの発表当初から、最も楽しみにしていたものだ。

 

日本では、年末の風物詩というと、ベートーヴェンの第九を思い起こす人がほとんどと思うが、自分の中では、「メサイア」のほうがしっくりくる。大学進学で田舎を離れる以前、私は、中学、高校の計6年間、欠かさず地元の合唱団が毎年12月に開催するメサイア公演に足を運んだ。きっかけは、中学の音楽の先生が、その合唱団の団員だったから(当時は素直な中坊だった)。会場は地元の公会堂、オーケストラは、確か在京の大学のオケだったと思う(記憶違いかもしれない)。開催されるのは、土曜の夕方で、仲間たちと町の行きつけの喫茶店で軽く腹ごしらえをしてから、会場に向かったのだった。今でもその時の高揚感のようなものが思い出される。

 

会場が暗くなり、演奏が始まる。決して短い曲ではない(というより大変長い曲だ)が、最後まで飽きることはなく、最終曲の「アーメン」が始まると、(これで終わってしまうのか)と何やら寂しい気持ちなったものだ。すでに40年以上前のことなので、ぼんやりした記憶なのだが、第二部の最終曲、あの有名な「ハレルヤ」は、客席にいる私たちも一緒に歌うことができたように思う。あれは、本番の演奏中だったのか、或いはアンコールのような形で、コンサートの最後にそのようなプログラムがあったのか…。

 

大学進学後は、田舎から足は遠ざかり、地元のメサイア公演を聴くことは、ついに一度もなかった。それが今から10年ほど前だったろうか、何故か無性に聴きたくなり、調べてみたら、既に地元の合唱団は解散されて、メサイア公演もなくなっていた。あとで母親から聞いた話だが、随分前に、件の音楽の先生が、私に合唱団に入らないかと、実家に誘いの電話をかけてきたことがあったそうだ。地方はいずこも人口減少で、合唱団の存続も難しかったに違いない。W先生は今もご存命だろうか…。

 

そんな訳で、「メサイア」には、それなりの思い出と思い入れがあり、数年前からコンサートに出かけてみたいと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。そんな中、昨年発表された2020/2021シーズンの新日フィルのプログラムに「メサイア」を見つけたときには、文字通り小躍りするほどだったのだが…。

 

話は変わるが、私は、自宅で音楽を聴く機会は、実はそう多くはない。時間の使い方がまずいのだろう、ゆっくりと音楽を聴く時間を持つことができず、もっぱら目覚まし代わりにCDをかけているくらいだ(それも毎回、同じ曲だ。そのあたりのことは、以前書いた“目覚めの音楽”のおすすめは?をご参照を)。

 

では、どこで聞くかというと、車を運転しながら、というパターンが一番多い。昔は気に入った曲のCDを車内に持ち込むスタイルだったので曲数にも限りがあったが、今はUSBメモリに好きなだけダウンロードし、車のUSBスロットにさせばストレスなしに再生できるので本当に便利だ。(因みに自分が使っているUSBメモリSanDisk Cruzer Fit 16GB。非常にコンパクトかつ安価で、スペックも必要十分だ。)

ジャンルは、クラシックやジャスの他、学生時代に聞いた洋楽、フォークやニューミュージック(今もこの言い方が通用するのか怪しいものだが…)の類も多い。一時期、めっきり聞かなくなったモノでも“一周回って”今の気分にマッチするものもある。最近は、山下達郎のON THE STREET CORNERシリーズあたりがお気に入りだ。

メサイア」も車の中で、と思わなくもないが、何しろ、あの長さだ。さらに言えば、曲の雰囲気が車中で聞くには“重すぎる”というか。ではどうするか。なんと、クインシー・ジョーンズがアレンジした「メサイア」があるのだ。CDのタイトルは、「Handel's Messiah: Soulful Celebration」。

あのメサイアがゴスペル調にアレンジされ、それを、スティービー・ワンダーやアル・ジャロウ、パティ・オースティン等々、ブラックミュージック界の錚々たるメンバー達が演奏しているのだ。「メサイア」を知らない人にもお勧めだ。また、普段はブラックミュージックを聴く機会はないが、原曲は知っているというクラシック愛好家のかたにも“一聴”の価値があると思う。1曲目の「Overture」のアレンジからして、“こう来たか”と思わせるものだし、3曲目の「Every valley shall be exalted」では、原曲通りのイントロから突然打って変わってビートが利いたアレンジになるのにニヤリとさせられる。そんな驚きが、終曲の「HALLELUJAH! ハレルヤ・コーラス」まで続くのだ。

 

敢えてわがままを言わせてもらえれば、第二部で終わりにせず、第三部の終曲「Amen アーメン」のクインシーバージョンを是非聞きたかったところだが、それは多くの望みすぎということか。

 

もうすぐクリスマスシーズンが始まる。ドライブしながらこのCDを聴く機会も増えそうだ。

隠れトランプとアメリカ人上司

先週の土曜、久しぶりに東京に出る機会があった。私の“師匠”ともいえる元上司に相談したいことがあり、電話したところ、「まずは飲んで話そう」とのこと。新型コロナの現状を考えると、気後れせざるを得ないが、何しろ師匠からの提案である。恐る恐る電車を乗りつぎ、待ち合わせ場所の八重洲北口に向かった。

土曜ということもあり、平日よりは人出は少ないのではと、淡い期待を抱いていたが、そんな思いをあざ笑うかのような混雑ぶりだった。大丸の一階では、何やら人の行列ができており、デパートの店員が「最後尾はこちら」というプラカードを持ちながら、客を誘導している。“師匠”は東京住まいだが、すでに70を優に超えるお歳だ。新型コロナの感染や重症化リスクを考えると、人混みのなか、後輩の相談に乗るためにわざわざ外出して下さったことに頭が下がる。

 

さて、無事に時間通り落ち合い、店に向かう。久しぶりの再会に、まずはワインで乾杯し、早速、私の相談事に乗ってもらった。そちらについては、ほどなく結論が出て、次に話題に上がったのは、アメリカ大統領選である。

師匠が言うには、「間違いなくバイデン勝利だ。自分は日常的にCNNもチェックしている。世論調査の結果から見ても、トランプ再選はあり得ないだろう。」とのことだった。一方、私は「トランプが勝ちそうな気がします」と自分の意見を伝えた。師匠は「ロジックは何だ。理由がないだろう。」と畳み掛けてくる。確かに“ロジック”というほどのものはない。こちらは防戦一方だ。ただ、自分がこれまで仕事をしたアメリカ人上司たちのことを思うと、トランプ再選のほうが現実的に思えたのだった。

 

私のこれまでのサラリーマン生活の中で、直属の上司が外国人だった期間を計算してみると合計で6年ほど。そしてその半分以上の期間、上司はアメリカ人だった。

 

以前、“空気を読む” のは日本独自のカルチャーか?でも書いたが、アメリカ人だからと言って、皆“好戦的”なわけでもない。むしろ、場の“雰囲気”に気を配り、会議でも派手なディベートにお目にかかるようなことはめったにない。アメリカ人の同僚と話していても、日本人と同様(?)に、時には互いに遠慮のようなものをみせることもある。

また、私の上司だったアメリカ人たちを含め、多くのアメリカ人ビジネスマン、特に名の通ったグローバル企業の社員ともなれば、立ち居振る舞いはジェントル、誰に対しても非常に親切で、心配りも行き届いている。これを“博愛主義”と言うべきか疑問はあるが、すくなくとも“自国第一主義”を掲げるトランプの行動様式とは対極的だ。こんなわけで、私はこれまでアメリカ人と一緒に仕事をした中で、“トランプ支持”を明確に表明する人物に一度も出会ったことがない。それは、そうだろう。彼らが日頃見せる態度から考えれば、およそトランプは彼らとはかけ離れた人物に見える。

 

しかし、その一方で、“上司と部下”という関係性の中では、時にアメリカ人の“素”の姿を目の当たりにすることがある。“それはどう考えても無理スジだろう”というような屁理屈を、真顔で振りかざしてこられたのは、一度や二度ではない。彼らの“自分の利益”に対する執着は、日本人のそれとは桁違いだった。“全体最適”などという概念は、自らの損得勘定の前では、何の意味もない。ましてや“損して得取れ”などというのは、彼らにとっては宇宙人の言語と同様に理解不能である。彼らが時折見せるそのような言動は、「自国第一主義」ならぬ、まさに「自分第一主義」そのものなのだった。そんなアメリカ人上司を多く見てきたからか、テレビニュースで、一見普通のおばさん然とした女性が、「集計作業を中止しろ!」と叫びながら、投票所のガラス窓に拳を叩きつけている映像を見ても、何の驚きもないのだ。「まあ、アメリカ人ならありえるな」と。

 

投票について言えば、ジェントルマン然とした彼らが、普段は「トランプ支持」などおくびにも出さず、選挙では自国第一主義の候補に投票することは容易に想像できる。“隠れトランプ”について、あるテレビニュースの解説者は、「トランプは大統領なのだから、選挙民は“隠れトランプ”になる必要はない。世論調査の結果も、今回の選挙では前回と違い、隠れトランプの影響は少ないだろう」などと言っていたが、私の考えは真逆だ。この4年間、トランプの言動が衆目を集めるにつれ、「“隠れトランプ”ジェントルマン」達は、ますます表立ってトランプ支持とは言い難くなったではないか。AP通信によれば、現在、まだ開票結果が定まらない5州のうち、トランプが優勢となっているのは、アラスカとノースカロライナの2州だ。アラスカはともかく、ノースカロライナと言えば、全米屈指の名門大学であるデューク大学ノースカロライナ大学チャペルヒル校があり、州都ラリーと、隣接するダーラム、チェペルヒルを結ぶ三角地帯は、「リサーチ・トライアングル・パーク」と呼ばれる有名なハイテク産業地域だ。(話は逸れるが、デューク大と言えば、映画「ディープ・インパクト」で、宇宙船「メサイア号」の乗組員の軍医がデューク大出身という設定だったのを思い出す。)

そこにはIBMが世界最大級の拠点を置いているほか、シスコシステムズや、英国製薬大手のGSKなどが集まり、それ故ノースカロライナアメリカ南部の中では最も進歩的な州とも言われている。そんな州でさえ、トランプ優勢というのは、隠れトランプの“根深さ”を思わずにはいられない。

 

開票開始後、暫くは事前予想を覆すトランプの善戦にマスコミも随分慌てたようだが、郵便投票分の開票が進むにつれ、バイデンの勝利がほぼ固まりつつあるように見える。師匠の予想は当たり、私は外したようだ。よく考えてみれば、今回の選挙には、前回とは大きく異なる環境要因、すなわち新型コロナウイルスがあった。投票に当たっては、「コロナ対策が第一」と考えて候補を選ぶことも少なくなかっただろうし、そういう選挙民は、コロナ感染のリスクがあるなか、敢えて投票所に赴こうとは思わないだろう。であれば、当然、郵便投票を使った選挙民はバイデンに投票するケースが多いはずだ。

 

さすが師匠、ここまで織り込み済みで「バイデン当選」を予想したのだろう。まだ暫くは教えを乞う日々が続きそうだ。

大阪都構想と会社組織

一昨日、全国の耳目を集めた大阪都構想に対する住民投票が行われ、結果、僅差で反対多数となった。私は、大阪市民でも府民でもないので、大阪の皆さんが決めること、自分が気に留めることもない、という立ち位置で、日曜夜のNHKの特番を真剣に見るわけでもなく、結果についても、(そうなったか)という程度の感想だった。そもそも、「大阪府大阪市の二重行政を、大阪都に一元化、効率化する」というロジックには既視感があった。まるで会社の組織改編の際のアナウンスメントのようだと感じていたのだ。

 

組織改編というのは、どこの会社でもよくある話だ。例えば、マーケティング部と営業部の連携を緊密にするために“一元化”するとか、社員のフォローを厚くするため、プロジェクトマネージャーとは別にラインマネージャーを置くとか。しかし、面白いことに、このような組織改編は周期的に一方から他方へと行ったり来たりすることが多い。“一元化”した営業マーケティング部は、暫くすると「責任の明確化」のために、営業機能とマーケティング機能に分割・再編成され、プロジェクトマネージャーとラインマネージャーは、「二重管理の解消」のために、一人のマネージャーがプロジェクトマネジメントとラインマネジメントの両方の機能を担うことになったりする。

 

これは一体どうしたことか。良かれと思って組織改編したのに、暫くすると元に戻ってしまうとは。私が思うに、要は「完璧な組織形態というものは存在せず、それぞれに長所・短所がある」ということに尽きると思う。そういう意味において、組織の“立て付け”の議論に多くのコストと時間を費やすのは、(少なくとも会社組織においては)あまりよいスジではないと言えよう。

 

会社組織については、インテル元CEOのアンディ・グローブが、自著「HIGH OUTPUT MANAGEMENT(ハイアウトプット マネジメント)」の中で、次のように述べている。

「組織は、二つの典型的な形態に分けられる。完全な “使命中心”の形態と、“機能別”編成形態である。」「現実の世界では、この“両極端”の間で妥協点を求めることになる。」「したがって、インテル社では今日、“混血”組織となっている。」

(「第8章 混血組織」より)

 

“使命中心”と “機能別”が、それぞれどのような組織を指すのかは、本書をお読み頂きたいのだが、大阪都構想に当てはめれば、ざっくり言えば、“府・市”は“使命中心”に近く、“都”は“機能別”と近いと言ったところか。グローブによれば、“使命中心”と、“機能別”の形態のそれぞれに存在理由があり、どちらが勝っているわけではない。また、どちらか一方に100%偏ってしまえば、とんでもない結末が待っている。(その事例として、グローブは本書の中で、彼の生まれ故郷であるハンガリーで彼が実際に体験した、中央計画機構の意思決定がもたらした非効率を紹介している。)会社組織であれ、自治体であれ、混血の“割合”を調整しながら、可能な範囲内で最適化を図っていくしかないのだ。

 

冒頭に述べた通り、私は大阪とは縁もゆかりもない。大阪都構想についても、テレビのニュースで報道されている以上の知識があるわけでもない。ただ、直感的には、今の大阪市大阪府の組織形態と、大阪都になった場合の組織形態とについて、一方が他方より大幅に優れている、或いは劣っているとは、思えない。現に東京都でも、千代田区などは10年以上も前から千代田“市”になりたいと言っているそうだ。大阪“都”になっても、しばらくしたら、“市”に戻りたいという声が出てくることも十分考えられる。もし、そうであるならば、“府・市” から“都”に移行するために、多くのエネルギー(と費用)を投入するのが理にかなっていると思えない(昨日の新聞報道で、大阪都構想の“準備”のために既に10億円が費やされていたというのには驚かされたが)。そういう意味では、今回の投票での、反対という“民意”は、合理的かつ実利的であったと言えるのではなかろうか。

Go To Eatの“Why”は何か?

皆さんはGo To Eatキャンペーンを利用しましたか?私は残念ながら、まだ利用していない。そもそも新型コロナウイルスが流行する前も、あまり外食する機会が多い方ではなかったのに、コロナ禍での「不要・不急の外出は控える」生活スタイルがすっかり板についてしまったものだから、ここに来て急に「外食に出かけましょう!」と言われても、なかなか足が向かないのだ。

 

テレビのニュースを見ていると、「トリキの錬金術」やら、「無限くら寿司」やら、いろいろ“活用方法”があるようだが、そもそも鳥貴族には行ったことがないし(焼き鳥には一家言あって、贔屓にしている店が別にある)、回転ずしは近所にある別のチェーン店を専ら利用している。毎日の新規コロナウイルス感染者数は減るどころか、むしろ増加傾向にある今、ポイントがもらえるからと言って、敢えてこれまで利用したことのない店にまで足を延ばしてみようとは、残念ながら、思わないのだ。逆に言えば、自分がこれまでよく利用している店がキャンペーンの対象であれば、「それなら、ちょっと行ってみるか」ということになるのだが、何故か自分がよくいく店に限って、対象にはなっていない。チェーン店ではなく、家族経営でやっているような小さな店が多い。グルメサイトとも縁遠い雰囲気だ。と、ここまで書いて、ふと思ったのは、「本当に今困っているには、グルメサイトに出稿しているような大手チェーン店よりも、家族経営でやっているような店の方なんじゃなかろうか」ということだ。

 

Go To Eatキャンペーンの制度設計には、批判も多い。グルメサイト運営会社を儲けさせているだけだという声もある。「無限くら寿司」について、農林水産省はマスコミの取材に対して、「制度上なんの問題もありません」と答えたそうだが、制度そのものに問題があるのであれば、「制度上、問題ない」との回答は、ナンセンスとしか言いようがない。「キャンペーンは、使いたい奴が使えばいいのだから、使わない奴は文句を言うな」と言われるかもしれないが、キャンペーンに使われている金は、もとをただせば国民が支払った税金だ。農林水産省の官僚たちが、自腹を切ってやっているなら文句はないが、自分が払った税金の使い道について、意見を述べるくらいの権利はあるだろう。

 

さて、私の意見である。農林水産省の官僚たちに、まず言いたい。サイモン・シネックの「WHYから始めよ!」(原題:Start with Why)を読んでみろ、と。

サイモン・シネックの主張はTEDでのプレゼンテーションでも有名なので、ここで詳しく説明することはしないが、本書の中で、例えば彼はAppleを引き合いに出し、数多あるmp3プレーヤーや、HPやDell等の大企業がひしめくラップトップコンピュータ市場で、何故Appleが特別な存在になれたのか、理由を次のように説明している。

「他の企業が“What”、すなわち自分たちが“していること”から考え、行動しているのに対し、Appleは“Why”、すなわち、自分たちがそれをする“理由”からスタートしている」と。

 

Go To Eatキャンペーンを見たとき、確かに、飲食店への“送客を増やす”ということは達成されているだろう。しかし、それはサイモン・シックの言う“Why”に当たるのか?私の考えは“否”である。ここで出発点として考えるべきWhy(目的)は“本当に困っている飲食店を救済するため”であるべきだ。その意味で、Go To Eatキャンペーンは残念ながら、Apple 以外の企業が制作する広告“キャンペーン”と同様、駄作(策)と言わざるを得ない。

 

「そんなことを言うなら、お前がキャンペーンを考えてみろ」と言われるかもしれないが、残念ながら、私は農林水産省の官僚たちのように情報を持っている訳でもないし、考えつくことはたかが知れている。また、中央省庁の官僚ともなれば、“地頭”もよかろう。ここは、専門家にまずは本書を読んでもらい、是非“Whyから始めた”政策を立案、実行してもらいたいものだ。

アントレプレナーにセーフティネットは不要か

以前、ベーシックインカムと失業保険で、「過去に雇用保険の加入条件を満たし、保険料が支払われていたケースでも、その後1年を超えて未払い期間があった場合は、それまでに支払われた保険料は”リセット”されてしまう。」と書いた。その時、念頭にあったのは、非正規労働者にするセーフティネットだったが、同様のことは起業家(アントレプレナー)にも起こりうる。

 

”起業家”と聞くと、何かお金を持っていそうな印象を受けるが、必ずしもそんなことはない。自分の周りにいる起業家たちを見ても、将来の株式公開を夢見て、今は耐え忍んでいる、というケースが少なくない。

 

「ゴー・パブリック」(市川一郎著)は、ごく普通のサラリーマンの主人公が起業する物語だ。

大手メーカー入社4年目の彼は、社内のある出来事から、会社を辞め、起業を決意する。そんな彼が、いろいろなトラブルを乗り越え、6年後には新規株式公開(IPO)を果たすというサクセス・ストーリーだ。奥さんもおり、起業3年後には長男も生まれる。そのような生活上のイベントと、IPOに至るイベントがパラレルに描かれている。公開業務に携わったことのある方々が読んでも、非常にリアリティがある内容だと思う。

 

さて、この主人公のケースは、苦難の末にめでたく上場という”ハッピー・エンド”で終わるのだが、現実はそれほど甘くない。ベンチャー企業の生存率は、日経ビジネスの記事によれば、創業から5年後は15.0%、10年後は6.3%。20年後はなんと0.3%だそうだ。

 

例えば、もし、この主人公が起業3年後に、努力の甲斐なく廃業を決断しなければならない事態に陥った場合を想定してみよう。妻もおり、長男も生まれたばかりだ。借金がなければよいが、それでも日々の生活費は必要だろう。そんな彼にセーフティネットはあるのだろうか。たとえば、もし失業手当を受け取ることができれば、少なからず助けになるのではないか。

 

彼は起業する以前、大手メーカーに3年以上勤務していた。当然雇用保険に加入し、保険料を支払っていたはずだ。しかし、残念ながら、今となっては、彼は失業手当給付の対象外だ。起業を決めたのは彼で、創業当初の社員は自分を含めて二人だけだったが、その会社での彼の肩書は”代表取締役社長”だった。現在の雇用保険の立て付けでは、代表取締役雇用保険に加入することはできない(”社員”は自分を含めて二人でもだ)。従って、起業後3年間は保険料を納付していなかった(納付したくてもできなかった)。冒頭に述べた通り、過去に雇用保険の加入条件を満たし、保険料が支払われていたケースでも、その後1年を超えて未払い期間があった場合は、それまでに支払われた保険料は”リセット”されてしまう。よって、主人公は失業手当を手にすることはできないのだ…。

 

「独立・開業を考える人間は、そもそもリスクを承知で始めるのだから、セーフティネットなど不要。失業手当などもっての外。」という意見もありそうだ。しかし、本当にそれでよいのか。

 

経済産業省のホームページを見ると、「『日本再興戦略』(平成25年6月14日閣議決定)において『開業率が廃業率を上回る状態にし、開業率・廃業率が米国・英国レベル(10%台)になることを目指す』」と掲げている。」とある。要は、国としても開業率を増やして、経済の底上げをしたいということなのだ。しかし、残念なことに、少し古い数字だが、平成27年度の開業率は5.2%とのこと。目標達成には程遠い。一方で、開業を推し進めておきながら、他方、失敗したら何のセーフティーネットもなく”自己責任”というのでは、開業に躊躇するのも当然だろう。そもそも、現在の失業保険の立て付け、すなわち「社長は経営者であって労働者ではないのだから、失業保険の対象外」という考え方が、現実にマッチしていない。その昔は、就職から定年まで、一つの会社で”勤め上げる”のが良しとされ、起業どころか、転職さえ憚られる雰囲気があったものだ。そんな中、社内の出世競争に勝ち残った人間が、役員になり、やがて会社を去っていく頃には、年齢も60歳を超え、子供も独立し、家計の心配もない。そもそも退職金ももらえる。そんな状況であれば、「役員は労働者でないから失業保険の対象外」でも問題なかろう。しかし、今の時代は、そんな経営者ばかりではない。「ゴー・パブリック」の主人公は、28歳で起業し、社長になったのだ。

 

何も、アントレプレナーに特別なサポートをすべきと言っているのではない。せめて本人が過去に支払った雇用保険に見合うくらいの失業手当は給付してもよいのではないか。開業にはアクセルを吹かし、セーフティーネットにあたる失業保険の枠組みについては、昭和の頃のままというのは、如何なものか。Go to キャンペーンで経済回復にアクセルを吹かす一方、感染予防については相変わらず「マスク・手洗い」と国民の「民度」に頼るのみという、今の状況を連想してしまうのは、私だけだろうか…。

ヘレン・ケラーと”空飛ぶ”教科書

外国人と話をしていると、時に「英語はどこで学んだのか?」と尋ねられることがある。その時私は決まって次のように答えることにしている。「中学校で習いました。」

 

大抵の場合、相手は冗談を言っていると受け止めて、笑いながら別の話題に移っていくのだが、自分としては、偽らざる気持ちを伝えただけだ。

 

私の中学時代、英語の先生は3年間同じだった。女の先生で、年齢は40代半ばか、或いはそれ以上という印象だが、実際はもっと若かったかもしれない。子供の頃というのは、大人の年齢を上に見がちだ。

 

さて、この先生(ここでは仮に"O先生”と呼ぶことにしよう)、いろいろな意味で個性的であった。たとえば自分の教室が一階にあり、二階でO先生の授業が行われているとしよう。時折、二階から教科書が"降ってくる”。一階で授業をしている別の先生は「今日は、O先生は荒れてるな。」などとつぶやきながらも、いつものことなので、さして気に留める様子もない。一方、生徒のほうは、次の時限にO先生の授業があったりすると、「あ~、今日のO先生の授業は大変だなぁ…。」と気が重くなるのであった。こんなことが続けば、父兄の間でも問題になりそうなものだが(と書いて、"父兄”という言葉が今も通用するのか気になったが、このまま続ける)、少なくとも私の在学中は、そのようなことはなかった。理由を考えてみるに、多分、O先生の授業内容に対して、評価が高かったからではなかろうか。(或いは、校長先生が、元々英語の先生だったので、その手腕を買っていたためにO先生を守ったということもあるかもしれないが…。)

 

O先生の授業には、大きな特徴があった。授業中、"英語しか話さない”のである。今の世の中では、"まあ、そういうこともあるだろう”と思われるかもしれないが、時は昭和40年代、今から50年近く前のことだ。小学生時代に英語の塾に通うような生徒は極めて少数派だ。東京ならともかく、地方では、子供向けの英会話教室など、影も形もない時代である。そんな子供たちが、小学校から中学に上がり、初めて英語に触れる時、先生が英語しかしゃべらないとしたらどうだろうか。適切な例えかどうかはわからないが、ヘレン・ケラーとサリバン先生の関係に近いような気がする。何しろ、こちらは全く英語がわからないのだ。O先生は授業中、英語でしか喋らない。何かしろ!、と言っているようなのだが、理解することは不可能だ。そのうちO先生は、こちらが理解できないことにいら立ち、ヒートアップしてくる。結果、教科書が宙を舞うのだ…。

 

私自身、中学一年の一学期は、とにかく大変だった。怒られるにしても、何で怒られているのか解らない。そこで、(多分、こういうことなんじゃなかろうか)と想像し、それが当たれば見つけもの、外れれば、さらに先生の怒りが増す。少数派の英語塾に通っていた生徒以外、私を含め、普通の生徒は英語の授業がある日は朝から気が重いのであった...。

 

ところが、2学期、3学期と時間が経つにつれ、生徒たちもだんだんと要領を掴んでくる。解らなかったことが、どうしたことか、少しずつ解るようになってくる。そうして、2年生、3年生になっても、O先生の授業は続き、時に教科書を窓の外に放り投げられながらも、何とか三年間を過ごすことができたのだった。

 

当時は、生徒側の立場で、"大変な先生に当たってしまった”と気を病むばかりであったが、今は、教える先生側の苦労は如何程であったか、想像することができる。例えば、仮に文科省が「今後は、英語の授業中、先生は英語しか使えないことにする」と通知を出して、対応できる先生がどれだけいるだろうか。"英語だけで英語を教える”のは、英語が話せればできるというものではない。授業の構成にも工夫が必要だろう。また、それに取り組む"覚悟”のようなものがなければ、"英語だけの授業”を継続的に実施するのは困難なのではなかろうか。

 

英会話教室に行けば、外国人講師が英語だけのレッスンをしてくれる」という反論もあろうが、それは、教わる側にある程度の基礎知識があるという前提で成り立っているように思う。ドリフの荒井注が"This is a pen.”と言った時(わかる世代にしかわからない例えで申し訳ない)、be動詞は主語が三人称単数だから"is”で、冠詞は"pen”が子音から始まるから"an”ではなく"a”ということを、外国人講師が英会話のレッスンでゼロから教えてくれるとは思えない。(O先生は、これを、中学一年相手に、英語だけで教えていたのかと思うと、頭が下がる)。

 

話は少し逸れるが、昨今は"英文法”より"英会話”、書くことより話すことが重要視され、評価される風潮があるように思う。個人的意見を言わせてもらえば、仮に英文法が判らずに英会話ができたとして、海外観光に行くにはそれでよいかもしれないが、ビジネスの世界では通用しないという印象だ。正しい文法を用いる人間と、そうでない人間がいたら、前者のほうが圧倒的に相手の信用を勝ち取ることができるというのが実感だ。自分も、できるだけ文法的に間違いがない言葉遣いをするよう心掛けている。一方、ビジネス英会話で交わさせる言葉に必要な文法のほとんどは、私が中学時代に習ったレベルの知識で事足りる。(あとはボキャブラリーを増やすだけだ。)そういう意味では、あの当時の中学英語のカリキュラムというのは、かなり実用的かつ実践的だったと思う。昨今は、どうしたら英語が"喋れる”ようになるのか、そのための英語教育についての議論が多いように思うが、"喋れる”かどうかは、喋る機会がどれだけあるか次第。実生活のなかで喋る機会がないのであれば、"喋れる”ようにはならないのだから、まずはしっかり文法を学んだ上で、あとは英語を"日常的に使わざるを得ない”環境を、生徒たちにどうやって提供するかを考えればいいように思うのだが如何だろうか。例えば、クラス担任は外国人にして、日常の連絡事項やホームルームはすべて英語にするとか。

 

あれから50年近い年月が経ったが、O先生はご存命であろうか。叶うのであればお会いし、是非お礼を申し上げたいのだが…。

トリチウム水とGo To キャンペーン

近頃気になっていることがあった。テレビのニュースなどで、現在の福島第一原発の様子を映した映像を見ると、敷地中にタンクのようなものが所狭しと並べられているのが判る。そこには、いわゆる”汚染水”が貯蔵されているらしいということは知っていたが、素人目にもそろそろ”キャパオーバー”なのが明らかな様子だった。そんな中、汚染水を”海洋放出”することが決まりそうだという。

 

そもそも海洋放出できないからタンクに貯蔵していたであろうものを、どういう理由で、放出可能となったのか、疑問が湧いた。

 

いつもの通り、サクッとググってみると、そもそも”汚染水”とは、溶け落ちて固まった燃料”デブリ”を冷やすために、注入され続けている冷却水のこと。現在は、「ALPS」と呼ばれる設備で、ほとんどの放射性物質(全部で63種類あるらしい)が除去できるそうだが、どうしても一種類だけ取り除くことができない放射性物質がある。それがトリチウム。海洋放出しようとしているのは、トリチウム以外は除去された”トリチウム水”だそうだ。これを”薄めて”海に流すらしい。

 

大方のテレビのニュースの論調は、”科学的には問題ないが、風評被害が心配”というニュアンスに感じられた。しかし、本当に”科学的”に問題ないのか。希釈したところで絶対量は変わらない。いつになるかはわからないが、いずれは限界が訪れる。また、平成28年3月に開催された外国特派員協会での会見記録では、当時の原子力委員会の委員長が、「フランスとかイギリス、もうイギリスは今動いてはいませんけれども、福島のトリチウムから見るとはるかに桁違いに多いトリチウムが毎年、海に排出されている」と発言したとある。経済産業省のホームページにアップロードされている「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会事務局」資料を見ると、確かにその通りだ。しかし、その資料をさらによく見ると、フランスとイギリスの数値が異常値的に突出しており、それらの国以外の数値と福島のそれを比較すると、むしろ福島のほうが”桁違い”にも見える。そもそもフランスとイギリスでやっているから日本でも大丈夫というロジックは全くもって科学的でない。いわば、フランスとイギリスではマスクをしていないから、日本でもマスクは不要と主張しているようなものだ。

 

これで本当に「科学的に問題ない」と言えるのか。問題ないなら、なぜ、貯蔵タンクを敷地一杯に設置する前に、海洋放出しなかったのか。最初の疑問に逆戻りしてしまう。

 

そんなことをつらつらと考えているうちに、さらなる疑問が湧いてきた。「本当にトリチウムは除去できないのだろうか?」

Wikiから辿って、まず最初に目に留まったのは、1981年に日本原子力学会誌に掲載された論文だ。(話は逸れるが、本当に便利な時代になったものだ。何か疑問があれば、すぐにネットで関連する論文を閲覧することができる。)タイトルは「重水素およびトリチウム分離技術の現状」。読んでみて驚かされるのは、すでにこの時点でトリチウムを除去するための複数の研究が行われており、その幾つかは技術的に確立されつつあるという点だけではない。いまから約40年も前に、「最近の原子力開発の発展に従って、近い将来に確立しておかねばならない技術にトリチウム問題がある。」(論文内の文章をそのまま抜粋)との指摘がなされていることだ。タイムマシンがあったなら、1981年にタイムスリップして「今から30年後にとてつもない原発事故が起こるのです。どうかそれまでに実用化を!」とお願いするのだろうが、そんなことを考えても詮無いことだ。

 

さらにググってみると、現時点で実用化に最も近い技術は、日本ではなく、ロシアにあるようだ。2016年6月23日付東京新聞の記事によれば、ロシアの国営原子力企業ロスアトムが日本の報道陣にトリチウム水処理のための試験施設を公開した、とある。ロシアは日本に採用を働きかけているが、処理のかかる費用は「推定790億円もの巨費を要するという。」(記事の記載そのまま。)

 

790億円もの”巨費”というが、昨今のコロナ禍を巡る国家予算についての報道に慣れてしまったせいか、それがはたして巨額なのかどうか、正直ピンとこない。たとえば「アベノマスク配布」にかかる事業費は、6月1日付の新聞報道等によれば、当初466億円といわれていたが、結果的には266億円に”大幅圧縮”されたという。Go To キャンペーンに至っては、総予算は1兆6794億円。(6月7日時点。今月に入って取り沙汰されている”追加分”は、この時点では想定されていない。)

 

マスクに300億円かけられるのなら、トリチウム水処理に800億円くらいかけられないのか、と正直感じてしまうのは私だけか。(もちろん、相手がロシア企業ということを考えると、追加費用なしで許してくれるどうかは、非常に懸念されるところではあるのだが…。)

 

アベノマスクやGo To キャンペーンを引き合いに出すと、「それはすでに使ってしまったお金なのだから意味がない。」という向きもあろう。確かにその通り。こぼしてしまったミルクを悔やんでみても仕方ない。だったら、来年度予算はどうか。

 

財務省は先月末、各省庁からの来年度予算概算要求を締め切ったが、日経の記事等によると、科学技術分野に関連すると思わる省庁の要求額は以下の通りだという。

 

要求額

前年比率

増額分

厚生労働省

32兆9895億円

0.01%増

33億円

経済産業省

1兆4335億円

12.7%増

1821億円

文部科学省

5兆9118億円

11.4%増

6739億円

農林水産省

2兆7734億円

20.0%増

5547億円

環境省

3418億円

13.1%増

448億円

 

コロナ禍で経済が停滞する中で、税収の落ち込みも激しかろう。それでも、厚生労働省を除く各省はいずれも二桁%の増額を要求している。(ちなみに厚生労働省の予算には、新型コロナ対応などの経費は要求額未定のまま事項要求しており、さらに数兆円規模で膨れる見通しとのこと。)家計であれば、収入が減れば、どうやって支出を減らすか頭を悩まさざるを得ないが、国家予算は別ということか。因みに4省庁の増額分を合計すると、1兆4588億円になる。予算の総額ではない、”増額分”だけの総額である。これに比べたら、”トリチウム水処理に790億円”など、容易に捻出できそうではないか…。

 

それにしても残念なのは、原発事故のような国家としての未曽有の大惨事に対して、必要とされる技術が国内で育成されておらず、結果として外国企業に頼らざるを得ないという現実だ。来年度予算の中には、20年後、30年後の日本人が必要とするであろう技術開発の振興のための予算が含まれていることを願わずにはいられない。