アラ還オヤジの備忘録

雑感や、その他諸々。

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「両立」しないもの

近頃テレビのニュースを見ていて、気になっているフレーズがある。「感染防止と経済活動の両立」だ。それが可能なら、それに越したことはないが、実際問題、本当に“可能” なのだろうか?

 

「感染防止と経済活動の“両立”」というフレーズを聞いて思い出されるのは、トム・デマルコの「ゆとりの法則」(原題:Slack、訳:伊豆原弓)の中の一節だ。

ある日デマルコは、友人であるケイパーズ・ジョーンズとホテルのロビーで偶然出会う。ケイパーズは、プロジェクトのスケジュール管理と見積もりを専門とする会社の創業者で、それらに関する分析ツールを開発している。彼は、ホテルのロビーでデマルコに分析ツールの最新バージョンのデモを見せる。プロジェクトに関するいくつかの質問に答えれば、プロジェクトの予想スケジュール、必要な人員の補給パターンなどを提案してくれるのだが、質問の中に、「何を最適化したいか」という項目があった。選択肢として、次の二つのラジオボタンが表示される。

  • 時間を最小限に抑える
  • コストを最小限に抑える

この、どちらか一方を選択しなければならないのだが、ケイパーズはデマルコに、次のように愚痴るのだ。

「この選択肢のことで、クライアントからずいぶん苦情を言われているよ。どうしても時間とコストの両方ともを最小限に抑えたいというんだ。」

そんなクライアントに対して、ケイパーズは、辛抱強く、二つの相互依存する変数を両方とも最小化することはできないと説明する。「『時間とコストの両方を最小限に抑える』という第3のラジオボタンを作りたい気持ちにもなる」とこぼしながらも、「論理的には馬鹿げたこと」というのが本心だ。このエピソードに対するデマルコの感想は、こうだ。

「この第3のラジオボタンへの需要は、現代の経営の悲しい現実を物語っている。」

 

自分の経験から言っても、このような要求をしてくるクライアントは少なくない。しかし、現実には、時間を最小限にするには、そのための追加リソースを投入しなければならない。リソースが追加されればその分コストもかかる。中には、「時間が短くなった分、リソースも減るのではないか」などと言ってくるクライアントもいるが、ちょっと考えてみれば、それが「論理的に馬鹿げたこと」なのは、すぐわかる。確かに、時間をゼロにすれば、リソースもゼロだ。そして、成果物もゼロなのだ。

 

ケイパーズのケースは、時間とコストの両方を“最小化する”だが、冒頭のテレビニュースのケースは、「感染防止効果」と「経済活動」の両方の“最大化”だ。 “大”と “小”の違いはあるが、「二つの相互依存する変数を両方とも最小化することはできない」のと同様に、二つの相互依存する変数を両方とも“最大化”することもできないと考えるのが「論理的」だろう。

 

デマルコは、「この第3のラジオボタンへの需要は、“現代の経営”の悲しい現実」と言ったが、日本が新型コロナ感染の第三波の脅威に晒されている中で、今、為政者達が語っているコロナ対策が、のちのち「“日本の政治”の悲しい現実」などと言われないことを祈るばかりだ。

“政治的”とは何か

どこの業界も似たようなものかもしれないが、自分がこの10年ほど身をおいていた業界は、本当に“狭い世界”だった。どの会社に勤めているどいつがどんな奴なのか、大抵わかってしまう。特にマネジメントレベルの人間は、業界内を魚が回遊するかの如く渡り歩いていたりするので、その人物と一緒に仕事をした経験があるという人たちもその分だけ多く、「ああ、Aさんね、あの人は…」というような感じで、ちょっと名前が出ただけで、滔々と語ってくれるという人も少なくない。かく言う私も、図らずも“回遊”していたクチなので、自分が知らないところでどんな風に言われているのか、考えただけでも恐ろしい。とにかく、一つ言えることは、“変なことはするな”ということだ。よい評判というのはなかなか広がらないが、悪い評判というのはあっという間に広がってしまう。“滔々”と話をする語り手の舌が滑らかになるのは、間違いなく“悪い”評判のほうだ。特にポジションパワーを“笠に着”ての道に外れた振る舞いは、“物語”の格好のターゲットとなる。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とは、よく言ったもので、こうあるべきと、誰もがわかっていても、実際には、なかなかそういう人物は少ないように思う。かく言う私自身も、周りからはどのように見られていたのか、今さらながら考えてしまうのだ。

 

さて、話がちょっと逸れてしまったが、“狭い世界”の続きである。ある時、外国人の上司が来日した時の話。彼は、私の直属の上司でアメリカ人。以前、隠れトランプとアメリカ人上司で、アメリカ人上司達との間の経験を紹介したが、今回の彼は、アメリカ人だが、大変な日本通で、日本語もかなり出来た。また、奥さんが中国人ということもあり、アジア的な価値観のようなものを理解している人だった。そんなわけで、彼は、私の経験したアメリカ人上司の中では、数少ない、自分第一主義な匂いが薄い人だった。そんな彼と、寿司屋でランチを共にしていると、彼から「あなたの前の会社の上司は、随分と“政治的”な人だと聞いていますが、実際、どうでしたか?」と尋ねられた。そもそも私の前の会社の上司が誰かを知っているという時点で“狭い世界”なのだが(私から、前の会社の上司が誰だったか話をしたことはおろか、その人物の名前を出したことも一度もなかった)、そう聞かれて、私は一瞬、“う~ん”と唸ってしまった。確かに、前の会社の上司(彼も外国人だ)は、余り評判の良い人とは言えなかった。私がその会社を辞めた後、彼もその会社を去ったのだが、余り幸せな辞め方ではなかったと、風のうわさで聞いていた。ただ、彼を“政治的”と言うのかどうか。そもそも“政治的な人”とは、どういう人のことを指すのだろうか…。

 

そんな経験が頭に残っていたのだろう、パトリック・レンシオーニの「あなたのチームは、機能してますか?」(原題:THE FIVE DYSFUNCTION OF A TEAM)を再読していた際、主人公のCEOが、“政治的”の意味をマネジメントチームに説明している場面が目に留まった。

CEOのキャサリンがマネジメントチームのメンバーに対して、「これほど政治的なグループは、あまり見たことがない」と言ったことに対して、COOのニックが「政治的というのがどういう意味か、正確に教えてもらいたい」と迫った。それに対するキャサリンの説明は以下の通りだ。

「政治的とは、自分が本当にどう考えるかではなく、ほかの人にどう反応してほしいかによって、言葉や行動を選ぶこと」。

 

実は、ここまで書いて、ちょっと引っかかることがあった。日本語の“政治的”と、英語の“politics”は同義なのだろうか?確かに私の上司もあの時、寿司屋で“political”という単語を使っていた。自分は、それを日本語の“政治的”と解釈したのだが…。

そんなわけで、本書の原著の該当する部分を見てみると、キャサリンのセリフの英語バージョン(というか、こちらが本家だが)は以下の通りだ。

“Politics is when people choose their words and actions based on how they want others to react rather than based on what they really think.”

本書の翻訳者もpoliticsを政治的と訳している。“Politics”と“政治的”は同義でよさそうだ。

 

件の“前の会社の”上司だが、この定義を踏まえた上で、彼の当時の言動を思い返してみると、確かに“政治的”と言われても仕方なさそうに感じられたのだった。

 

さて、話は変わるが、新型コロナウイルスの第三波は、いよいよ深刻な状況になってきた。首相、担当大臣、官房長官をはじめとする政府・与党、それ以外の国会議員、地方自治体の首長、専門家に医療従事者と様々な“ステークホルダー”がそれぞれの立場から発言をしているが、現場の窮状を率直に訴えるものがある一方で、「本気でそう思っているのか」と突っ込みたくなるような、まさしく“政治的”な発言も少なくないと感じるのは私だけだろうか。第二波が収まったころならまだしも、今は、何かを忖度している状況ではなかろう。手遅れにならないことを願うばかりだ。

社長の仕事と“仕組みと仕掛け”(そして、コロナ対策の優先順位)

その昔、自分がある会社の代表取締役だった頃の話。何人かの若手社員から、次のような質問を受けることがあった。「社長の仕事って、何ですか?」。

こんな質問を二回り以上離れた若造から受けるというのは、よほど風通しのいい会社だったのか、或いは、社長の威厳のなさからか。前者であれば、救いもあるが、どうも後者のような気がする。「無駄なヒエラルキーがなくていいじゃないか」と思われるクチもあろう。自分でも、そういう良さもあるのではと思ったこともあったが、先日、「指導者とは」(原題:LEADERS、リチャード・ニクソン著)を再読して、(やはり、それではいけなかったのだ)と再認識させられた。

(本書については、いろいろ書きたいこともあるが、それは今日のお題から離れるので、そちらはまたの機会にして、先に進む。)

 

「社長の仕事って、何ですか?」という質問に対する回答だが、その時々のシチュエーションや相手次第で、次の2パターンを使い分けていた。

パターン1:「社員が食いっぱぐれないようにする」

パターン2:「会社がうまく回る“仕組みと仕掛け”を作る」

 

パターン1は、偽らざる心境だった。立ち上げメンバー三人でスタートした会社には、かつての部下や後輩も誘って、大きくしていった。彼らのほとんどは、名の通った大企業の社員だった。そんな彼らが、安定した企業人生活(と、それに伴う家庭生活)を顧みず、自分と一緒に仕事をしますと言ってくれたのだ。家族からの反対もあったろう。ある日、社員の家族を招待して、ランチクルーズを催した時のこと。業界最大手の会社から引き抜いたかつての部下はMBA保有者で英語も堪能、転職しようと思えば、引く手あまたに違いない人物だった。彼は、そのランチクルーズに奥さん同伴で参加したのだが、その時、彼の奥さんが私に向けた、「こんな人物が社長をやっている会社で、本当に大丈夫なのか」という厳しい眼差しを忘れることができない。何が何でも会社を成功させて、彼らが路頭に迷うようなことは断じてさせないと心に誓ったのだった。

 

パターン2は、質問してきた相手が、(自分も将来、会社を興したい)というような願望を持っているのでは、と思われるときに、そう答えることが多かったように思う。そして、私の回答に対する相手の反応は、やや期待外れ、というようなことが多かった。相手はそれを、(当たり前)と感じたか、或いは(仕組みと仕掛けを作るのは社員の仕事で社長は決裁するだけ)と思ったかもしれない。

 

上場企業のような大会社では、社長は決裁するだけかもしれないが、スタートアップはそうは行かない。社長は先頭に立って、仕組みと仕掛けを作り続け、社員にはその実行を徹底させる。上手く行けばいいが、上手く行かないこともある、というか、ほとんどの場合、上手く行かない。そして、失敗に凹む間もなく、次の手を打っていくのだ。

 

仕組み・仕掛けが上手く行かない場合、そこから期待された効果が得られないだけなら、まだいいが、それに加えて、思わぬ副作用が発生することも少なくない。

ベン・ホロウィッツは、自著「HARD THINGS」のなかで、自らの失敗談を明かしている。

彼はオプスウェアを経営していた時、「非線形四半期問題」の解決に取り組んだ。いわゆる「ホッケースティック」というやつで、四半期の売上の多くが期の終わる間際(酷い時には売上の90%が四半期最終日)に計上された。これでは事業計画が立てにくいということで、この問題を解決するために彼が取った“仕組み・仕掛け”は、四半期(3ヶ月間)中、最初の2ヶ月の間に契約がまとまった場合にボーナスというインセンティブを与えるということだった。結果、どうなったか。確かに“ホッケースティック”の曲がりは多少まっすぐになった。一方、売上は減った。社員達は、期の終わる間際に計上させる売上を、次の期の最初の2ヶ月に移しただけだったのだ。社員達は、社長の望み通り、「期中の売り上げを平坦にすること」を第一優先にした。しかしそれは、それまでの第一優先、すなわち「売上の最大化」の優先度を下げることだった。ホロウィッツの、「私は以前の売上を最大化する優先順位のほうが好きだった」との弁は、やや自嘲気味だが、私はこの失敗を笑うことができない。このようなはっきりとわかるケースほどではないものの、似たようなことは会社経営の中では日常的に起きている。一度作った“仕組み・仕掛け”が、重要度の優先順位にそぐわないとわかれば、朝令暮改などの誹りを受けようとも、速やかに撤廃、或いは修正しなければならないのだ。

 

一方、“仕組み・仕掛け”の成功例で思い出されるのは、「ティッピング・ポイント」(原題:The Tipping Point、マルコム・グラッドウェル著)の中で紹介されているサンディエゴの黒人地区で行われた乳がんに関する啓発キャンペーンの事例だ。

資金が限られる中、キャンペーンの実施者は当初、教会でセミナーを開いていたが、結果は惨憺たるものだった。そこで、彼らは、キャンペーンの実施場所を、教会からある場所に移したところ、状況が劇的に改善したという。そこはどこか。なんと「美容院」というのだ。彼らが、何故そのような場所にたどり着いたかについては、本書を読んで頂きたいが、一見何の関係性もない乳がんと美容院を結び付けた“仕組み・仕掛け”は、エレガントと言うより他ない。自分もそんな“仕組み・仕掛け”が作れたら、と思わずにはいられない。

 

さて、話は変わるが、10日ほど前に“第三波”とスーパーコンピュータの中で、“やっぱり来たか、第三波。”などと呑気なことを言っていたが、その後、これほど急激に新型コロナ感染状況が悪化するとは、正直、予想していなかった。Go to キャンペーンという“仕組み・仕掛け”が失敗であったことは、疑う余地がないだろう。ホロウィッツが間違って「売上の最大化」の優先度を下げてしまったように、「感染再拡大の阻止」の優先度を下げてしまったのだ。もう一度言う。「一度作った“仕組み・仕掛け”が、重要度の優先順位にそぐわないとわかれば、朝令暮改などの誹りを受けようとも、速やかに撤廃、或いは修正しなければならないのだ。」

“人に関心を持たなくてはならない”の著作権は誰にある?

ビル・キャンベルの名前が最初に自分の頭にインプットされたのは、ベン・ホロウィッツの「HARD THINGS」を読んだ時だ。

キャンベルは、ホロウィッツが創業したラウドクラウドの取締役で、本書の中にも二人のやり取りが何度か出てくるが、それとは別に、ホロウィッツはキャンベルの人物像を詳しく紹介している。そんな中でも、最も興味を惹かれたのは、キャンベルがCEO を務めたGO Corporationでの逸話だ。1994年に廃業したGOは、ビジネス的には決して上手く行ったとは言えなかった、というより大失敗だったのだが、そこで働く人々は、ホロウィッツによれば、「ひとり残らずこの会社を人生でもっともすばらしい職場のひとつだと思っていた」。そして「ほかのことはともかく、ビルのようになって良い会社をつくってほしい。」と結んでいる。社員たちが「稼ぐ」ことができなかった会社に対してこのような賛辞を贈る理由について、ホロウィッツはGOのことを「人生最高の職業体験」や「働きやすい職場」と説明しているが、自分としては、消化不良は否めなかった。「HARD THINGS」は、ビル・キャンベルについての本でもなく、勿論GOについてのものでもないので、そのうち、ビル・キャンベルについての本が出ないかと思っていたところで出会ったのが、「1兆ドルコーチ」(原題:Trillion Dollar Coach、エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アラン・イーグル共著)だ。

この本、ページ数は300を超えるが、文字は大きく行間も広い。以前、FTEとプロジェクトの”炎上”の中で、トム・デマルコの「ゆとりの法則」を紹介した際、“著者自身も、ニューヨークからシカゴ、あるいはアムステルダムからローマに向かう飛行機のなかで、最初から最後まで読めるようにまとめたと言っているほどなので、読了にそれほどの時間はかかるまい。”と説明したが、“軽く”読めるという点では、本書もいい勝負だ。

 

さて、内容だが、本書で説かれているビル・キャンベルの“教え”のエッセンスは、ホロウィッツの「HARD THINGS」でかなりの部分が既に紹介されているという印象だ。以前、一人のマネージャーは何人のスタッフを持てるのかの中で、“ホロウィッツはグローブの熱烈な信奉者で、非常に大きな影響を受けていたであろうことをうかがい知ることができる”と書いたが、ホロウィッツは、オペレーションについては、アンディ・グローブのやり方を見習う一方、メンタル的な面については、ビル・キャンベルに感化された部分が大きいのではないか。そういう意味では、既に「HARD THINGS」を読まれた方には、敢えて本書を手に取るまでもないかもしれない。ただ、既に述べた通り、本書は“軽い”ので(「HARD THINGS」の方は、幹部を解雇する際の心構え等、かなり“重い”内容も含まれている)、試しに読んでみるのもいいかもしれない。

 

さて、そんな訳で、すでに「HARD THINGS」を読んでいた私にとっては、「1兆ドルコーチ」を読んでの新たな“学び”は、それほど多くはなかったとも言えるのだが、一か所、気になる部分があった。 “Chapter 5 パワー・オブ・ラブ 「やさしい組織」になる” の中の以下の記述だ。

 

「人を大切にするには、人に関心を持たなくてはならない」。これは私たちがビルとの会話で何度か聞いた言葉だ。何か古い名言のようだが、そうではない。少なくともネット検索では見つからなかった。よって私たちはここに著作権を主張する─「人を大切にするには、人に関心を持たなくてはならない」!

 

正直、この部分を読んだときは、思わずのけぞった。“著作権を主張する”とは、いかにも強欲なアメリカ人ビジネスマンの発想だが、この文章を読んだときに、私には「人に関心を持たなくてはならない」の出所について、ピンとくるものがあったのだ。デール・カーネギーの「人を動かす」(原題:How to Win Friends and Influence People)だ。

この本については、今さら内容を紹介する必要もないだろう。Amazonの商品説明に、“日本で500万部突破の歴史的ベストセラー。人が生きていく上で身につけるべき「人間関係の原則」を実例豊かに説き起こした不朽の名著。”とある通りだ。実は、本書の中で、カーネギーは、わざわざ「誠実な関心を寄せる」という章をたて、人間関係の中で、他人に関心を示すことが如何に重要かを説いている。さらに言えば、カーネギーは、そもそもこの言葉はアルフレッド・アドラーの著書の中にあると言うのだ。(残念ながら、私には、アドラーの、どの著書がそれにあたるのかは、見当がつかなかったが…。)

 

こうして見ると、キャンベルの“教え”には、「人を動かす」の中に述べられていることとの共通点が非常に多いように思う。もしかしたら、キャンベルも「人を動かす」の読者だったのか、そんな想像をしてしまうほどだ。

 

それにしても、本書「1兆ドルコーチ」の三人の著者はGoogle関係者、エリック・シュミットに至っては元CEOである。それが、“少なくともネット検索では見つからなかった”とは…。検索エンジンを作ることにかけては天才的な彼らも、それを使って実際に検索することは、意外と不得手なのか。思わずそんなことを考えてしまったのだった。

“第三波”とスーパーコンピュータ

やっぱり来たか、第三波。昨晩のNHK“NEWS きょう一日”によると、昨日(11月13日)は、全国で合計1705人の新型コロナウイルス感染が発表され、過去最多となった12日をさらに上回ったとのこと。

 

当然と言えば、当然だ。Go To トラベルにGo To Eatと、政府は感染リスクを“増大”させる施策にご執心な一方、リスクを“低減”させる施策については、ここ数ヶ月の間、一切手を打ってこなかった。減る要素がないのだから、患者数が増えるのは当たり前だ。「強い警戒感を持って注視」などと言えば、聞こえはいいが、要は、ただ“眺めていただけ”だ。感染者数を抑えるための具体的なアクションは一切ない。企業であれば、会議の席で「強い警戒感を持って注視した結果、何もしなかったので業績が下がりました」などと宣う阿呆がいれば、即クビだが、政治の世界は違うようだ。

 

そもそも、コロナウイルスについての日本政府から国民に対するアナウンスメントは、最初から首をかしげるものばかりだった。2月頃に盛んに言われていたのは、「“正しく”怖がりましょう」というキャッチフレーズと共に、「マスクは予防には効果はありません」というものだった。あたかもマスクを買い求める国民に、「マスクをするのは愚かなことだ」と言わんばかりの勢いだった。

 

それが今はどうだろう。マスクをしなければラーメン屋にも入れないご時世だ。日本が世界に誇るスーパーコンピュータ「富岳」も、マスクをした場合としない場合とで、咳をした際の飛沫の飛び方、さらにはマスクの材質毎の特性まで計算し、テレビニュースでも盛んに取り上げられている。正直に言うと、「あれをスパコンで計算する必要があるのかなぁ」とも思う。咳をすれば飛沫が飛ぶのは当たり前、詳細まではわからなくとも、向かいの家に住むおばあさんに富岳と同じ質問をしても、似たような答えを聞けそうだ。要は、富岳が出した結果は、日本人の「常識」と大きくは変わらないのだ。その一方、なんとなく「常識」と思っていたことに、富岳が「お墨付き」を与えたという意味は大きいかもしれない。2月のように、テレビニュースで専門家(?)が「マスク不要論」を唱えたところで、「富岳もマスクが有効と言っている」となれば、皆マスクをするのだ。風邪が流行ればマスクをするという、新型コロナ前からの日本人の「常識」を富岳が取り戻してくれたのだ。

 

話は変わるが、東アジア各国の新型コロナ感染状況を調べてみた。出典はジョンズ・ホプキンス大学作成のダッシュボード。11月14日午後1時29分のデータだ。(一日当たりの数字は11月12日分。)

 

感染者数累計

死亡者数累計

一日の感染者数

一日の死者数

日本

115,360

1,864

1,644

7

中国

91,807

4,742

31

0

韓国

28,338

492

191

1

台湾

597

7

5

0

6月、欧米で感染拡大が収まらない一方、日本が第一波を乗り越えた際、その理由に「民度」を挙げた政治家がいた。では、現在の東アジア各国の中で、日本の一日当たりの感染者数が突出している理由を何とするか。やはり「民度」ですか?

 

意地悪を言うつもりはないが、その原因を明らかにしない限り、感染の封じ込めは難しいと思う。そこで期待したいのが富岳だ。東アジアの国々との比較であれば、遺伝子・人種に由来する“ファクターX”があったとしても、国毎で大きな違いはないはずだ。各国の政策の内容、実施時期や規模等を富岳に入力し、何故日本だけがこのような状況に陥ったのか、是非分析してもらいたい。咳の飛沫の飛び散り方のシミュレーションよりも、よほど富岳の“ポテンシャル”を示すのにふさわしいテーマと思う(飛沫の解析が無駄だと言っているのでは決してないので悪しからず)。

 

これらの国の中には、徹底的にPCR検査を実施する国もあれば、必要以上のPCR検査は無意味だとして、感染者数が多いにもかかわらずPCR検査数は他国と比較して少ない国もある。海外からの入国者に対して、2週間の隔離を徹底している国もあれば、隔離どころか待機すら免除する国もある。これら政策の違いが、感染者数にどのように影響しているのかがわかれば、より効果的な施策を実行することが可能になるはずだ。

 

PCR検査数に関する統計学の専門家の説明は理解しているつもりだ。しかし、その一方で、自分がこれまでに培ってきた「常識」は、検査数を増やした方がいいのでは、と囁いているのも事実である。学問が導き出す理論が「常識」を否定するのか、或いは再び富岳が「常識」に軍配を上げるのか、興味があるところだ。

ヘンデルとクインシー

映画「ディープ・インパクト」で、宇宙船「メサイア号」の乗組員の軍医がデューク大出身という設定だったと、隠れトランプとアメリカ人上司の中で書いたが、“メサイア”と言えば、今月28日に予定されていた、新日本フィルハーモニーの定期演奏会「ジェイド」シリーズの、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」公演が中止されたのは本当に残念だった。コロナ禍で仕方ないとはいえ、この公演は、新日本フィルの2020/2021 シーズンのプログラムの発表当初から、最も楽しみにしていたものだ。

 

日本では、年末の風物詩というと、ベートーヴェンの第九を思い起こす人がほとんどと思うが、自分の中では、「メサイア」のほうがしっくりくる。大学進学で田舎を離れる以前、私は、中学、高校の計6年間、欠かさず地元の合唱団が毎年12月に開催するメサイア公演に足を運んだ。きっかけは、中学の音楽の先生が、その合唱団の団員だったから(当時は素直な中坊だった)。会場は地元の公会堂、オーケストラは、確か在京の大学のオケだったと思う(記憶違いかもしれない)。開催されるのは、土曜の夕方で、仲間たちと町の行きつけの喫茶店で軽く腹ごしらえをしてから、会場に向かったのだった。今でもその時の高揚感のようなものが思い出される。

 

会場が暗くなり、演奏が始まる。決して短い曲ではない(というより大変長い曲だ)が、最後まで飽きることはなく、最終曲の「アーメン」が始まると、(これで終わってしまうのか)と何やら寂しい気持ちなったものだ。すでに40年以上前のことなので、ぼんやりした記憶なのだが、第二部の最終曲、あの有名な「ハレルヤ」は、客席にいる私たちも一緒に歌うことができたように思う。あれは、本番の演奏中だったのか、或いはアンコールのような形で、コンサートの最後にそのようなプログラムがあったのか…。

 

大学進学後は、田舎から足は遠ざかり、地元のメサイア公演を聴くことは、ついに一度もなかった。それが今から10年ほど前だったろうか、何故か無性に聴きたくなり、調べてみたら、既に地元の合唱団は解散されて、メサイア公演もなくなっていた。あとで母親から聞いた話だが、随分前に、件の音楽の先生が、私に合唱団に入らないかと、実家に誘いの電話をかけてきたことがあったそうだ。地方はいずこも人口減少で、合唱団の存続も難しかったに違いない。W先生は今もご存命だろうか…。

 

そんな訳で、「メサイア」には、それなりの思い出と思い入れがあり、数年前からコンサートに出かけてみたいと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。そんな中、昨年発表された2020/2021シーズンの新日フィルのプログラムに「メサイア」を見つけたときには、文字通り小躍りするほどだったのだが…。

 

話は変わるが、私は、自宅で音楽を聴く機会は、実はそう多くはない。時間の使い方がまずいのだろう、ゆっくりと音楽を聴く時間を持つことができず、もっぱら目覚まし代わりにCDをかけているくらいだ(それも毎回、同じ曲だ。そのあたりのことは、以前書いた“目覚めの音楽”のおすすめは?をご参照を)。

 

では、どこで聞くかというと、車を運転しながら、というパターンが一番多い。昔は気に入った曲のCDを車内に持ち込むスタイルだったので曲数にも限りがあったが、今はUSBメモリに好きなだけダウンロードし、車のUSBスロットにさせばストレスなしに再生できるので本当に便利だ。(因みに自分が使っているUSBメモリSanDisk Cruzer Fit 16GB。非常にコンパクトかつ安価で、スペックも必要十分だ。)

ジャンルは、クラシックやジャスの他、学生時代に聞いた洋楽、フォークやニューミュージック(今もこの言い方が通用するのか怪しいものだが…)の類も多い。一時期、めっきり聞かなくなったモノでも“一周回って”今の気分にマッチするものもある。最近は、山下達郎のON THE STREET CORNERシリーズあたりがお気に入りだ。

メサイア」も車の中で、と思わなくもないが、何しろ、あの長さだ。さらに言えば、曲の雰囲気が車中で聞くには“重すぎる”というか。ではどうするか。なんと、クインシー・ジョーンズがアレンジした「メサイア」があるのだ。CDのタイトルは、「Handel's Messiah: Soulful Celebration」。

あのメサイアがゴスペル調にアレンジされ、それを、スティービー・ワンダーやアル・ジャロウ、パティ・オースティン等々、ブラックミュージック界の錚々たるメンバー達が演奏しているのだ。「メサイア」を知らない人にもお勧めだ。また、普段はブラックミュージックを聴く機会はないが、原曲は知っているというクラシック愛好家のかたにも“一聴”の価値があると思う。1曲目の「Overture」のアレンジからして、“こう来たか”と思わせるものだし、3曲目の「Every valley shall be exalted」では、原曲通りのイントロから突然打って変わってビートが利いたアレンジになるのにニヤリとさせられる。そんな驚きが、終曲の「HALLELUJAH! ハレルヤ・コーラス」まで続くのだ。

 

敢えてわがままを言わせてもらえれば、第二部で終わりにせず、第三部の終曲「Amen アーメン」のクインシーバージョンを是非聞きたかったところだが、それは多くの望みすぎということか。

 

もうすぐクリスマスシーズンが始まる。ドライブしながらこのCDを聴く機会も増えそうだ。

隠れトランプとアメリカ人上司

先週の土曜、久しぶりに東京に出る機会があった。私の“師匠”ともいえる元上司に相談したいことがあり、電話したところ、「まずは飲んで話そう」とのこと。新型コロナの現状を考えると、気後れせざるを得ないが、何しろ師匠からの提案である。恐る恐る電車を乗りつぎ、待ち合わせ場所の八重洲北口に向かった。

土曜ということもあり、平日よりは人出は少ないのではと、淡い期待を抱いていたが、そんな思いをあざ笑うかのような混雑ぶりだった。大丸の一階では、何やら人の行列ができており、デパートの店員が「最後尾はこちら」というプラカードを持ちながら、客を誘導している。“師匠”は東京住まいだが、すでに70を優に超えるお歳だ。新型コロナの感染や重症化リスクを考えると、人混みのなか、後輩の相談に乗るためにわざわざ外出して下さったことに頭が下がる。

 

さて、無事に時間通り落ち合い、店に向かう。久しぶりの再会に、まずはワインで乾杯し、早速、私の相談事に乗ってもらった。そちらについては、ほどなく結論が出て、次に話題に上がったのは、アメリカ大統領選である。

師匠が言うには、「間違いなくバイデン勝利だ。自分は日常的にCNNもチェックしている。世論調査の結果から見ても、トランプ再選はあり得ないだろう。」とのことだった。一方、私は「トランプが勝ちそうな気がします」と自分の意見を伝えた。師匠は「ロジックは何だ。理由がないだろう。」と畳み掛けてくる。確かに“ロジック”というほどのものはない。こちらは防戦一方だ。ただ、自分がこれまで仕事をしたアメリカ人上司たちのことを思うと、トランプ再選のほうが現実的に思えたのだった。

 

私のこれまでのサラリーマン生活の中で、直属の上司が外国人だった期間を計算してみると合計で6年ほど。そしてその半分以上の期間、上司はアメリカ人だった。

 

以前、“空気を読む” のは日本独自のカルチャーか?でも書いたが、アメリカ人だからと言って、皆“好戦的”なわけでもない。むしろ、場の“雰囲気”に気を配り、会議でも派手なディベートにお目にかかるようなことはめったにない。アメリカ人の同僚と話していても、日本人と同様(?)に、時には互いに遠慮のようなものをみせることもある。

また、私の上司だったアメリカ人たちを含め、多くのアメリカ人ビジネスマン、特に名の通ったグローバル企業の社員ともなれば、立ち居振る舞いはジェントル、誰に対しても非常に親切で、心配りも行き届いている。これを“博愛主義”と言うべきか疑問はあるが、すくなくとも“自国第一主義”を掲げるトランプの行動様式とは対極的だ。こんなわけで、私はこれまでアメリカ人と一緒に仕事をした中で、“トランプ支持”を明確に表明する人物に一度も出会ったことがない。それは、そうだろう。彼らが日頃見せる態度から考えれば、およそトランプは彼らとはかけ離れた人物に見える。

 

しかし、その一方で、“上司と部下”という関係性の中では、時にアメリカ人の“素”の姿を目の当たりにすることがある。“それはどう考えても無理スジだろう”というような屁理屈を、真顔で振りかざしてこられたのは、一度や二度ではない。彼らの“自分の利益”に対する執着は、日本人のそれとは桁違いだった。“全体最適”などという概念は、自らの損得勘定の前では、何の意味もない。ましてや“損して得取れ”などというのは、彼らにとっては宇宙人の言語と同様に理解不能である。彼らが時折見せるそのような言動は、「自国第一主義」ならぬ、まさに「自分第一主義」そのものなのだった。そんなアメリカ人上司を多く見てきたからか、テレビニュースで、一見普通のおばさん然とした女性が、「集計作業を中止しろ!」と叫びながら、投票所のガラス窓に拳を叩きつけている映像を見ても、何の驚きもないのだ。「まあ、アメリカ人ならありえるな」と。

 

投票について言えば、ジェントルマン然とした彼らが、普段は「トランプ支持」などおくびにも出さず、選挙では自国第一主義の候補に投票することは容易に想像できる。“隠れトランプ”について、あるテレビニュースの解説者は、「トランプは大統領なのだから、選挙民は“隠れトランプ”になる必要はない。世論調査の結果も、今回の選挙では前回と違い、隠れトランプの影響は少ないだろう」などと言っていたが、私の考えは真逆だ。この4年間、トランプの言動が衆目を集めるにつれ、「“隠れトランプ”ジェントルマン」達は、ますます表立ってトランプ支持とは言い難くなったではないか。AP通信によれば、現在、まだ開票結果が定まらない5州のうち、トランプが優勢となっているのは、アラスカとノースカロライナの2州だ。アラスカはともかく、ノースカロライナと言えば、全米屈指の名門大学であるデューク大学ノースカロライナ大学チャペルヒル校があり、州都ラリーと、隣接するダーラム、チェペルヒルを結ぶ三角地帯は、「リサーチ・トライアングル・パーク」と呼ばれる有名なハイテク産業地域だ。(話は逸れるが、デューク大と言えば、映画「ディープ・インパクト」で、宇宙船「メサイア号」の乗組員の軍医がデューク大出身という設定だったのを思い出す。)

そこにはIBMが世界最大級の拠点を置いているほか、シスコシステムズや、英国製薬大手のGSKなどが集まり、それ故ノースカロライナアメリカ南部の中では最も進歩的な州とも言われている。そんな州でさえ、トランプ優勢というのは、隠れトランプの“根深さ”を思わずにはいられない。

 

開票開始後、暫くは事前予想を覆すトランプの善戦にマスコミも随分慌てたようだが、郵便投票分の開票が進むにつれ、バイデンの勝利がほぼ固まりつつあるように見える。師匠の予想は当たり、私は外したようだ。よく考えてみれば、今回の選挙には、前回とは大きく異なる環境要因、すなわち新型コロナウイルスがあった。投票に当たっては、「コロナ対策が第一」と考えて候補を選ぶことも少なくなかっただろうし、そういう選挙民は、コロナ感染のリスクがあるなか、敢えて投票所に赴こうとは思わないだろう。であれば、当然、郵便投票を使った選挙民はバイデンに投票するケースが多いはずだ。

 

さすが師匠、ここまで織り込み済みで「バイデン当選」を予想したのだろう。まだ暫くは教えを乞う日々が続きそうだ。