アラ還オヤジの備忘録

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気になる千葉市“死亡者の発生状況”

さっき、テレビをつけたら、今日の東京都の新規感染者数は178人で、昨年11月24日(188人)以来、約3ヶ月ぶりに200人を下回ったとのこと。

減少傾向が続いているのは、良い兆候だが、これが緊急事態宣言を早期に解除してよいというサインなのか、或いは、解除予定の3月7日以降もしばらく宣言を継続しないと、今度は“第四波”が来るかもしれないとか、専門家の間でも意見が分かれているらしい。

以前、千葉市“入院調整中”に関する一考察で、「“入院調整中”が解消されない限り、医療現場の状況は変わらないと思う。」と書いたが、東京都の今の状況はどうなのだろうか?因みに千葉市はどうかというと、昨日(2月21日)付の“入院調整中”の患者数は145。1月24日に記録した997に比べれば、だいぶ減少してきてはいるが、直近10日間は100から200の間を行ったり来たりしている状況で、“下げ止まり”の観を呈している。前にも言った通り、緊急事態宣言が発令された最大の理由が医療現場のひっ迫であるのなら、“入院調整中”の数がこの状況のままでは宣言解除は難しいのでは、というのが自分の考えだ。

 

ところで、実は、新規感染者数とは別に、気になっている数字がある。それは、千葉市ウェブサイトで公表されている死亡者の発生状況だ。昨日までの千葉市の死亡者数は合計47人。1例目の死亡例が発生した昨年4月17日以降、10例目、20例目、30例目、そして40例目まで、10例毎の発生日と、それに要した日数を以下にまとめてみた。

 

発生日

10例増加するのに要した日数

1例目

2020年4月17日

10例目

2020年12月7日

234日

20例目

2021年1月21日

45日

30例目

2021年2月11日

21日

40例目

2021年2月16日

5日

10例目に到達するのに約八か月(234日)を要したのに対し、20例目までは45日、30例目までは21日、そして40例目までは、わずか5日だ。

千葉市のサイトでは、「日々の感染者数に一喜一憂しないよう、一週間の傾向をしっかりとご確認ください。」(サイト上の記載)とのことで、週報というのが公開されているが、それによれば、千葉市内で最も感染者数が多かった週は、確定日ベースで1月4日から10日の週(感染者数581)。その後は、週を追うごとに減少し、直近の2月8日から14日の週は、感染数は120だ。にもかかわらず、感染者数が減少に転じて既に一ヶ月以上が経過した2月11日から16日の間に、これまでにないほどの死亡例が報告されているのだ。この、“感染者数減少 vs. 死亡例激増”という状況を、一体どう解釈すればよいのだろうか。

素人の自分が思うに、まずは次の二つの原因が考えられるのではないか。

  1. ウイルスの悪性度が上がり、死亡率が高くなった。
  2. 以前は救命できていた重症度の患者が救命できなくなった。

千葉市以外の都市がどのような状況なのかわからないが、千葉市に特段の特殊要因があるのでなければ、死亡者数の推移は、他の地域も似たような状況なのではないか(もし、千葉市が特殊なのであれば、それはそれで千葉市にとっては大問題だが…)。であれば、緊急事態宣言の解除の前に、まずは、このような状況に対する原因分析をする必要があるのではなかろうか。自分が挙げた二つの原因のうち、もし、後者だとしたら、感染者数が減っているのもかかわらず、医療現場のひっ迫度は改善されているどころか、さらに悪化している可能性すらある。東京都の新規感染者数が3ヶ月ぶりに200人を下回ったくらいでは、ジジイは全く安心できないのだ。

キャリアメールが付いている新料金プランがあればいいのに。

5G対応ガラホはかなわぬ夢かで、「ここ最近、NTTはドコモを完全子会社化、KDDIUQモバイルの統合完了というニュースが続いた。」などと言っていたのが昨年の10月。その後、NTTドコモが12月に「ahamo(アハモ)」を発表したのを皮切りに、auは「povo」(ポヴォ)を発表、そしてソフトバンクが「LINEMO(らいんも)」を発表したのが今週だ。

細かい比較は、その分野に詳しい方々がいろいろなところで解説しているので、ここでそんな話をしようとは思わないが、まあ、どれも大差ないというか、(事前に相談してるんじゃないの?)と勘繰りたくなるほど似たような内容だ。

以前話した通り、自分はauユーザーなので、普通に考えればpovoに乗り換えという判断になるのだが、実は、別の会社にしようと考えている。

理由は単純で、キャリアメールが使えないから。これは、ahamoもLINEMOも同様だ(このあたりも談〇なんじゃないの?、と疑われるところだ)。じゃあ、一体にどこに、ということになるのだが、いろいろ調べた結果、決めたのは、mineo(マイネオ)だ。

そもそも、なぜキャリアメールが必要かというと、ネット銀行を使っているから。ネット銀行で取引した際、「こんな取引がありましたよ」と、メールに送信してくるのだが、多くのネット銀行は、通知先のメールアドレスとして、携帯のキャリアメールを推奨している。その反対に、Gmail等のフリーメールは「お控えください」とのこと。ネット銀行で取引するたびにメールが送られてくるのを(鬱陶しい)と思わないこともないのだが、“万が一”の時のことを考えると背に腹は代えられない。

そんなわけで、キャリアメールが使えるところがないかと探してみると、上記の通り、メジャーなキャリアの新料金プランは“全滅”だ。一方、格安SIMはどうかと言えば、端(はな)から、キャリアメールなど眼中にない、という体(てい)で、多くの格安SIMは、そもそもキャリアメールの設定がない。そんな中、マイネオには“mineoメールアドレス(〇〇@mineo.jp)”があるとのこと。また、先月末に発表されたmineo新料金プラン「マイピタ」も、なかなかよさげだったこともあり、そちらに移行しようという算段だ。

それにしても、大手三社の新料金プランにキャリアメールがなくて、不便に感じる人は少ないのだろうか?新聞報道などによると、新料金プランへの移行はネットでの申込のみだそうで、主なターゲットは若者らしい。イマドキの若者は、ネットで銀行取引などしないのか、或いは、そもそもネット取引そのものをスマホで済ますから、気にしないのか。年寄りもスマホでネット取引すればよいかもしれないが、あの小さい画面でカネのやり取りを確認するのは、老眼には余りに辛すぎる…。

 

正直に言うと、できれば大手の新料金プランに移行したいというのが本音だ。いずれかのキャリアが、キャリアメールを付けてくれたらなぁ、と思わずにはいられない。事業者に対して妙に強気な態度の総務大臣が、果たしてご自身でネット銀行にアクセスする機会があるのかはわからないが、ここは一般市民の声に耳をお貸し頂き、是非、新プランへのキャリアメール付帯に力を発揮して頂きたいところだ。

“ムーンショット”に関する、とてつもない勘違い

以前、ネルソン・マンデラとポケトークで、英語学習にBBC Learning Englishを活用していると書いたが、その中のThe English We Speakというプログラムの先週のお題は"Moonshot"。

この言葉についてのプログラム中の説明は以下の通り。

An ambitious project carried out without any expectation of short-term profitability.

言葉の由来は、J・F・ケネディ大統領が行った二つのスピーチと言われる。

一つ目は、1961年5月25日に行われた、“Special Message to the Congress on Urgent National Needs”(「国家的緊急課題に関する特別議会演説」)の中の以下のくだり。

"This nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the moon and returning him safely to the earth. "

(この国は、この10年(=60年代)が終わる前に、人を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することを約束すべきだ。)

二つ目は、1962年9月12日に国民へ向けて行われた一般演説に中の以下のくだりだ。(こちらのほうが有名だろう。)

“We choose to go to the moon.” (我々は、月に行くことを選ぶ。)

そして、アポロ11号船長ニール・アームストロングと月着陸船操縦士エドウィン・オルドリンが月面着陸に成功したのは、1969年7月20日だった。

まさしく有言実行、“月面着陸”という“an ambitious project”を見事成し遂げたのだった。(私くらいの年代の方々は、小学校のテレビで、アームストロング船長が月面に第一歩をしるす瞬間を見た記憶をお持ちに違いない。)

 

実は、この“ムーンショット”プロジェクト、日本でも行われている。もちろん、目指しているのは“月面着陸”ではない。今年2月8日付の内閣府ウェブサイトには、

「7つのムーンショット目標のPM(計47人)が揃い、研究開発プロジェクトが本格的に始動しましたので、お知らせいたします。」

とある。7つのムーンショット目標として揚げられているのは、

目標1:2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現

目標2:2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現

目標3:2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現

目標4:2050年までに、地球環境再生に向けた持続可能な資源循環を実現

目標5:2050年までに、未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出

目標6:2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現

目標7:2040年までに、主要な疾患を予防・克服し100歳まで健康不安なく人生を楽しむためのサステイナブルな医療・介護システムを実現

 

内閣府のウェブサイトでは、予算規模に関する記載を見つけることができなかったが、新聞報道等によれば、平成30年度第2次補正予算で5年間に1000億円が計上されたとのこと。

 

お上が、国の研究振興に前向きなことは、国民としては、大変ありがたいことだと思う。その一方で、何か、とてつもない勘違いをしていないか、とも思う。以下、一般市民の“戯言”を述べてみようと思う。

まず、どの目標も、それ自体は大変素晴らしいとは思うが、“~までに”の部分を見ると腰が抜ける。目標7が2040年で、それ以外の六つの目標は全て2050年、今からおよそ30年後だ。一体誰がどうやってそんな長期間の“プロジェクト”をマネジメントするのだろう。1000億円の予算をぶち込むのはよいが、それが役に立ったのか、或いはドブに捨てたのか、どうやって検証するのだろうか?中には「BBCが紹介しているムーンショットの定義に"without any expectation of short-term profitability"とあるように、プロフィット度外視でいいのだ。」という人があるのかもしれないが、withoutしてよいのは“short-term”のプロフィットだけだ。さらに、このプロジェクトをけん引しているお役人たちは short-term ならぬ“long”-termの期間をどれくらいと考えているだろうか。アポロ計画を見てみてほしい。ケネディが「月に行く」と国民に述べたわずか7年後、その宣言通り60年代に目標を達成しているのだ。ケネディの時代より、よほど変化が速い現代社会で“30年後”に達成を目指すプロジェクトなど、そもそも“プロジェクト”と言えるのだろうか。件のBBCのプログラムを是非聞いてほしいのだが、そこで紹介されている以下の例文はアポロ計画についてではない。“An ambitious project”は、新型コロナウイルスに対するワクチン開発なのだ。

We're investing in a moonshot vaccine to help fight the virus.

新型コロナウイルスパンデミックが始まっておよそ1年、これが彼らの“ムーンショットプロジェクト”の期間(しかもlong-term)だったのだ。そして、見事に成功させた。一方、“日の丸”ムーショットは、目標の文言自体は素晴らしいが、余りに“漠”としているうえ、達成は30年後。このスピード感では、勝負になるわけがない。月が遥かかなたにあるからと言って、目標達成がはるか未来であっていいわけはないのだ。

 

千葉市“入院調整中”に関する一考察

千葉市は、新型コロナウイルス感染者の発生についての中で、市民の感染症患者の発生状況を毎日更新している。ここで公表されている数字のうち、入院中、入院調整中、宿泊療養等の数字を追ってみた。期間は、千葉県を含む首都圏1都3県を対象に、緊急事態宣言を発令された1月7日から3日後の先月10日から昨日までの、約一ヶ月間だ。

 

まず、最初の10日間(1月10~19日)は以下のグラフの通り。

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この間、緑線の“入院調整中”は、10日の392人から19日は731人へと、上昇の一途を辿っている。その一方、赤線の“入院中”と青線の“宿泊療養等”は、ほとんど変化が見られない。

もし、新型コロナ患者用のベットや、宿泊療養施設に余力があるのであれば、“入院調整中”の数の増加に伴い、“入院中”と“宿泊療養等”も上がっていくはずだが、そうならないのは、既にそれぞれのキャパシティを使い切ってしまっていると思うのだが如何だろうか。因みのこの期間のそれぞれの最大値は、“入院中”が77(1月16、17日)、“宿泊療養等”は32(1月10日)。千葉市の人口約98万人に対する数字として、これが日本国内において標準的なキャパなのか、他の政令指定都市の状況とも比較してみたいところだ。

それにしても、入院調整中731人という数字には背筋が凍る思いだ。731人目の患者の調整には、どれくらいの時間を要したのだろうか?(これについては、あとで考察する。)

 

ところが、事態はこれで収まらない。この“入院調整中”の増加は、その後も衰えることなく、5日後の1月24日に最高値(997人)を記録するまで上昇を続ける。

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ほぼ千人の患者が、入院先が決まるのを待っている一方、この間も、入院数は、ほとんど変化がない(最大値は1月24日の82)。行政としてはベット数増床を試みたと思われるが叶わなかったようだ。入院調整が必要な患者数の、あまりに急激な増加を目の前にして、立ち尽くすより他なかったのではないか。

因みに1月24日と言えば、東京都の感染者数が12日ぶりに千人を下回った日だ(986人)。世の中は、(緊急事態宣言の効果が表れてきたのでは)と、緊張の度合いを緩め始めた頃だ。しかし、(少なくとも千葉市における)医療現場の実態としては、最悪の状況だったと考えられる。

 

さて、その後、どうなったか。まず、1月末までの推移を見てみよう。

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ここで奇妙な現象が起こる。前日まで、急上昇を続けていた“入院調整中”が、今度は逆に急降下を始めたのだ。1月31日のそれは617人。僅か一週間で369人の減少だ。一体何が起こったのか。入院のキャパが増えたのかと言えば、そんなことはない。グラフで見るとおり、若干増加(1月31日で106人)しているが、“入院調整中”の急降下を説明するには余りにも少ない。それでは、退院が増加して、その分のベッドが空いたのか?グラフには示していないが、1月24日から31日までの間に退院したのは、51人※1。仮に1日24日以降、一人の“入院調整中”も発生しなかったとしても、入院キャパの微増と退院数を差し引いて、およそ300人の“入院調整中”が“消失”したことになる。なぜか。最も可能性が高いと思われるのは、入院調整中の患者が、その状況のまま罹患期間を経過・終了してしまい、入院を“調整”する必要がなくなったため、入院調整中の数字から外されたというケースだ。その場合、患者はじっと自宅で連絡を待つしかなかったのだろうか。因みに1月10日から31日までに間に千葉市で発生した患者数は、1,220人※2。入院が必要と判断されたのに入院できない患者が300人を超えるということは、約4人に一人の割合だ。この状況を表現するのに、“医療崩壊”以外の言葉を思いつかない。

 

最後に、2月に入ってから昨日までのデータを紹介する。

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2月に入ってからも、入院調整中の数字は2月5日まで減少し続け(397人)、1月10日のレベルに戻ったが、その後は一進一退という状況だ。因みに1月10日から昨日までの間に新型コロナで亡くなった方は15人※3。一方、コロナ禍が始まってからの死者合計は29名(市外2名を含む)。この30日間で、全死亡者数の半数以上のかたが亡くなられているのだ。そんな“破壊的”な状況の割には、その間のテレビのニュース報道に、切迫感や緊張感が欠けていたと感じるのは私だけだろうか。

 

緊急事態宣言が発令された最大の理由は、医療現場のひっ迫だろう。「入院調整中の患者がいる」ということが、「入院のキャパシティをフルに使っている」ことを意味するという解釈が正しければ、“入院調整中”が解消されない限り、医療現場の状況は変わらないと思う。入院調整中を解消するには、患者数を減らすか、コロナ感染者用のベット数を増やすしかない。

これまでの“入院中”の最大値は112人(2月3日)。仮に、個々のコロナ感染者の入院期間が10日とすれば、一日当たりの感染者数が、ベット数の1/10以下にならなければ、“入院調整中”は解消しない計算になる。112/10=11.2。一方、昨日一日の感染者数は14人※4。最悪期は既に超え、もうひと頑張りのところまで来ていると願わずにはいられない。

 

※1:新型コロナウイルス感染者の発生についてにおける1月24日および31日更新の累計退院者数(それぞれ864人および915人)から計算

※2:新型コロナウイルス感染者の発生についてにおける1月10日および31日更新の累計患者数(それぞれ1,811人および3,031人)から計算

※3:新型コロナウイルス感染者の発生についてにおける1月10日および2月9日更新の累計死亡数(それぞれ14人および29人)から計算

※4:新型コロナウイルス感染者の発生についてにおける2月8日および9日更新の累計感染者数(それぞれ4,170人および4,184人)から計算

アマルティア・センは、今の日本をどう思うだろうか?

ネルソン・マンデラとポケトークではBBC Learning English6 Minute Englishというプログラムを紹介したが、他に自分が重宝しているBBCのシリーズにNews Reviewがある。文字通り、その時々のトピックをweeklyで紹介するのだが、このプログラムの良いところは、とにかく取り上げるトピックがタイムリーということだ。先週は、Russian Navalny Protests、そして今週、2月1日にアップロードされたトピックはMyanmar: Military takes controlだ。2月1日と言えば、スー・チー氏が軍に拘束されたというニュースが流れた当日だ。アジアとヨーロッパの間で時差があるとは言え、一体どんな進行でコンテンツを作成しているか、あまりの迅速さに舌を巻く他ない。

News Reviewでは、毎回、3つのニュースメディアのヘッドラインが引用される。今回、イギリスのテレグラフ紙から引用された三つ目のヘッドラインは以下の通り。

Military power grab deals killer blow to Myanmar's fledgling democracy.

“Fledgling” democracyとは、中々手厳しい。

 

ミャンマー民主化で思い起こされるのは、「貧困の克服」(アマルティア・セン著、大石 りら訳)の中の、次の一節だ。

「民主主義形態の政府や比較的自由なメディアが存在する国々では大飢饉と呼べる事態など一度も起こったことがないという事実も何ら驚くに値しないのです。」

民主主義国家では飢饉が起らないというのだ。ミャンマーが軍政から民政に移行したのは2011年。およそ10年前のことだ。しかし、その後もロヒンギャの難民問題は、幾度となく民主主義陣営各国からの批判に晒されてきた。センの言葉通り、もし民主主義国家では飢饉が起きないのなら、ロヒンギャ問題は、なぜ解決しないのか。或いは、“fledgling”な民主主義では解決が難しいのか。

 

そもそも一つの国の中で“飢饉”が発生しているとは、どんな状態なのか。センは、本書の中で次のように述べている。

「実際には、飢饉が人口の5%以上に被害を及ぼすことは稀であり、それが10%以上にのぼることはまずありません。」

また、飢饉は、自然災害のようなものと結び付けられやすいが、実は、

「1973年のインド、1980年初頭のジンバブエボツワナといった、世界でもっとも貧しい民主主義国家ですら、実際に深刻な旱魃や洪水その他の自然災害に見舞われた時には、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずにすんだのです。」

と、民主主義国家においては、甚大な自然災害下でも、飢饉が発生しなかった事例を紹介している。その一方、

「中国が三年ものあいだ、政府の政策の誤りを修正せずに放っておいた結果、1958年から61年にかけて三千万人もの餓死者を出してしまいました。議会には野党勢力もなく、複数政党制による選挙も行われず、自由なメディアも存在しなかったために、政府の政策の誤りが批判にさらされることがなかったのです。」

と、非民主主義国家で飢饉が発生する原因を説明したうえで、

「飢饉は、それを阻止しようとする真剣な努力さえあれば、簡単に阻止できるものなのです。」

と結んでいる。

では、なぜ民主主義国家では、真剣な努力がなされるのか。それは

「民主主義国家では選挙が行われ、野党や新聞からの批判にもさらされるので、政府はどうしてもそのような努力をせざるを得」

ないから。さらに、 “飢饉の発生において経済的不平等が果たす役割”として、

「たとえば突然の大量解雇など、市場機能の急激な低下によって新たに生じた不平等のおかげで、ある社会集団に属する人々だけが飢餓に見舞われることもありうるわけです。」

と述べ、続けて、さらに強い口調で、

「境遇に格差が生じたために他の社会集団は無傷だというのに一部の社会集団だけが壁にたたきつけられるようなことが起(こりうる)

として、それを防ぐためには、社会保護が必要不可欠とし、次のように結論付けている。

「物事が順調に運んでいる場合には、民主主義の保護的な役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で事態が大混乱に陥った時にこそ、民主主義はその真価を発揮してくれるものなのです。」

何らかの理由で事態が大混乱に陥って、一部の社会集団だけが“壁にたたきつけられる”ようなことが起っても、民主主義国家は、それを阻止しようと真剣に努力し、飢饉の発生を防ぐことができる…。

 

ここまで読んで、はたと考え込んでしまった。今の日本は民主主義国家なのだろうかと。

菅首相は先月の記者会見で「昨年以来、我が国の失業率は直近で2.9%と主要国で最も低い水準」と胸を張った。失業した国民が100人中2.9人でも(実際の失業率はもっと高いに違いないが)、その2.9人は“壁にたたきつけられている”のだ。しかし、いまの日本政府が、それを阻止しようと真剣に努力しているのか。一部の限られた業種、条件のグループが優遇され、そこから外れれば、“飢饉”状態を免れない。たとえば、大学授業料と“井戸塀”で紹介したような、一日一食で我慢せざるを得ない大学生も存在するのだ。

 

本書は、アジア初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが、1997年から2000年にかけて行った四つの講演の論文集だ。センは本書の中で、日本を民主主義の“成功事例”として度々紹介しているが、はっきり言って“ベタ褒め”状態である。そんなセンが、今の新型コロナ禍での日本政府の対応をみて、一体どう思うのだろうか。

因みに、本書の中では、故小渕恵三元首相の発言が幾度となく紹介されている。小渕元首相といえば、官房長官時代には“平成おじさん”などと言われ、田中真紀子氏からは“凡人”などと揶揄されていたのだが、こうして世界的に著名な学者の講演の中で、その言葉が賞賛と共に引用されているのを見ると、日本人として誇らしい気持ちになる。それに引き替え、“令和おじさん”はと言えば…。

 

センは、

「人々の批判に直面し選挙で支持してもらわなければならない場合、統治する側には、人々の要求に耳を傾けるべき政治的インセンティブがあるのです。」

と言い、

「政府が必ず人々のニーズに応えて、また、苦境にある人々を支援できるように、民主主義の手段的な役割─選挙、多党政治、報道の自由など─は、きわめて実際的な重要性を持ちます。」

とも言う。これは、政府が苦境にある人々の要求に耳を傾けないのであれば、国民は民主主義の“手段”を用いろということだ。今年は衆院選がある。コロナ下での日本政府の対応を目の当たりにした日本国民は、どのように“手段”を用いるのだろうか。

大学授業料と“井戸塀”

昨今のコロナ禍を巡る報道でも、大学生の窮状を伝えるものには心が痛む。先日目にしたテレビニュースでは、都内に住むある学生は、食費を切り詰めるために一日一食で我慢しているという。バイトをしようにも、それまでのバイト先だった飲食店は閉店し、新たなバイト先は、簡単には見つからない。両親には、高い大学の学費を含め、これまでの仕送り以上の金額の送金を望むのは難しい。いっそのこと、地元に帰ることができればよいが、東京から地方への移動は憚られる。そんな八方ふさがりの状況の中、今は、一日一食でじっと我慢するしかないという。生活困窮者に対しては、国もいろいろな施策をうっていると国会でも説明しているのだが、どうも、“本当に困っている人”に届いていない気がして仕方ない。

 

自分が大学生だった頃、今からおよそ40年前のことだが、その当時の学生たちも決して裕福ではなかった。ただ、その一方で、学費は現在に比べてずいぶん安かったと思う。記憶が曖昧なので、ちょっとググってみると、40年前(昭和55年)の国立大学の年間授業料は180,000円(入学金は80,000円)とのこと。一方、今はというと授業料が535,800円、入学料は何と282,000円というのだ。授業料は約3倍、入学金に至っては3.5倍だ。物価が違うとは言え、いくらなんでも高すぎだろう。因みに物価上昇率だが、総務省発表の「消費者物価指数」によれば、2019年の物価は昭和55年(1980年)のわずか1.36倍だ。この授業料、当時の自分の境遇からすると、とてもじゃないが大学入学を躊躇するほどだ。何しろ自分の場合は、経済的理由から、学費が高い私学への進学は到底考えられなかったし、国公立に合格出来ても、奨学金をもらうのが前提だった。お陰様で大学に合格し、奨学金も受給できたので、何とか大学を卒業することができたのだ。

余談になるが、大学を卒業する際、奨学金返済の“保証人”を決めるよう言われ、その時、研究室で面倒を見てくれていた助教授の先生に保証人をお願いしたら、酷く怒られた記憶がある。それはそうだろう、その当時は、「保証人」の責任の“重さ”もまるで分っていない世間知らずの学生だった。仕方なく、同じように保証人が必要だった研究室の同級生と、互いに保証人になったのだった。当時の自分の周りは、そんな貧乏学生が多かった。因みにこの「保証人」とは、一年ほど前に再会したのだが、外見は随分と“ジジイ”風になっていたものの、元気そうにやっていた。お互い相手に迷惑をかけることなく、無事、奨学金を返済できたのだった。有難いことだ。

さらに余談になるが、その奨学金は10年がかりで返したのだが、カミさんと結婚した時には、まだ返済の途中だった。結婚後に“借金”を抱えていることが発覚し、カミさんに、どうして結婚前に教えてくれなかったのかと、なじられた。借金があったら結婚しないという判断になったかどうかは謎だが、まあ、今となっては、ほろ苦い思い出である。

 

さて、話を戻すと、そんな貧乏学生にとって、当然バイトは不可欠だ。だれもが目に見えない看板を首から下げて人生を歩んでいる。そこに書かれているのは…で、イタ飯屋で学生アルバイトをしていたと書いたが、そこでは、店が終わると店長が自ら賄いを作ってバイト達にふるまってくれた。そもそもバイトを選ぶ基準は、時給の高低よりも“賄い”があるかどうかの方が優先度が高かった。家庭教師のバイトもしていたが、そちらも夕飯を食べさせてくれるというのが必須条件だった。

ある家庭教師のバイト先でのこと。その家は、家族全員が揃って夕飯を取るのだが、自分もその末席に加えてもらい、いっしょに夕飯を食べさせてもらっていた。大家族で、おばあさんも一緒に食卓を囲んだのだが、ある日のこと、そろそろ食事も終わる頃、そのおばあさんが私に「“イドベイ”って言葉、知ってる?」と聞いてきた。聞いたことのない言葉だった。正直に知らないと答えると、おばあさんは、“井戸塀”の意味を説明し始めた。政治家というのは、国のためには私財もつぎ込み、結果、井戸と塀しか残らない…。

 

あれから40年、今の政府与党の皆さん方は、“井戸塀”という言葉はご存じなのだろうか?国交副大臣のIR汚職やら、農相の鶏卵汚職やら、立場を利用して私腹を肥やす事例が後を絶たないところを見ると、40年前の私と同様、聞いたこともないに違いない。“罪滅ぼし”に、中国企業や卵屋さんからせしめたお金の、ほんの一部でよいから困窮した学生のために使ってみてはとも思うが、そんな発想ができるのであれば、そもそもあのような“みっともない”行動はとらないだろう。

 

話は戻るが、国公立大学の現在の学費のレベルは、本当にどうにかならないものか。私学はともかく、国公立として国費がつぎ込まれているのなら、次の日本を背負う人材を育成する責務があるはずだ。より多くの学生に最高学府での学習の機会を提供することは、国力の維持・向上には不可欠だろう。学生たちが、“一日一食”で我慢するような状況が早く改善されることを願うばかりだ。

郵政民営化とハンコ

今日は、昼からちょっと落ち着かない気分だった。郵便屋さんが午後に本人限定受取郵便を配達に来るのだ。

この“本人限定受取郵便”、あまりなじみがないが、本人以外に渡したらマズそうなものを送ってくるだろうことは容易に想像がつく。今回は自分が使っている、あるネット銀行からだ。

数週間前に、このネット銀行(ここでは“Z銀行”とする)からメールが届いた。(またどうせ、元本保証じゃない怪しい金融商品の勧誘だろう)と思ったら、今回はちょっと違った。Z銀行に限らず、ネット銀行のメリットの一つに、取引金額のレベルに応じて、振込手数料が何回か無料になるというのがあるが、その“振込”先を“登録制”にするというのだ。正確には、“ワンタイムパスワードアプリ”が使える端末、要はスマホを持っていれば登録不要なのだが、5G対応ガラホはかなわぬ夢かでカミングアウトした通り、自分はいまだにガラホを使っている。スマホを持っていない利用者は “お手続きに必要な書類をお送りしますので、コールセンターにお問い合わせください。”とのこと。(おいおい、わざわざ電話しなくちゃダメ?、ネット請求で十分でしょ?)と思いつつ、早速電話すると、今度は、“大変込み合っているので暫くお待ち頂くか、しばらく経ってからお掛け直し下さい”というお馴染みのメッセージが。しばらく経っても状況が好転しないのは経験上明らかなので、そのまま待つことにした。10分以上経過して、ようやくコールセンターの女性の声が聞こえてきた。さて、このオペレーターさん、きっとそれまでの電話応対でいろいろ言われたのだろう、明るい口調を装っているが、明らかにお疲れのご様子で、気の毒になるほどだ。言いたいことは山ほどあったが、まあ、それも大人げないと、メールに書いてあった“必要書類”を送ってほしいと、用件だけを簡潔に伝えた。こちらがずいぶん待たされているのは先方も承知のはずだが、そんなことはおくびにも出さず、さっさと用件だけで電話を終えることに、オペレーターさんの声からも安堵しているのが伝わってくる。電話口で聞かれた内容からも、ネットで請求できない理由はさっぱりわからなかったが、とにかく、無事、書類を送ってもらえることになった。

 

さて、その数日後、郵便物が自宅に届いたのだが、それはZ銀行からの必要書類ではなかった。郵便局からの“本人限定受取郵便のお知らせ”である。要は、Z銀行は件の“必要書類”を本人限定受取郵便で送ってきたのだ。(そこまで必要かぁ?)というのが第一印象。電話でわざわざ本人確認しているのだから、普通郵便でよくないかい?通帳とか、キャッシュカードが入っているならいざ知らず、まだ何も書かれていない用紙ですよ。

この時、思い出したのは、メールにファイルを添付するとき、パスワードを別メールで送られてくるケース。あれは本当に面倒だ。その時はいいのだが、しばらく経って、ラップトップに一旦保存したファイル開けたいとき、パスワードが記されたメールを探すのに、結構時間がかかったりする。送る側からすると、セキュリティーレベルを上げるためには、多少の不便は我慢して、ということなのだが、実は、この方法が“セキュリティーレベルを上げる”ことに、さほど貢献していないというのは、しばらく前からいろいろなところで話題になっている。自分はセキュリティの専門家ではないので、ここでそのことを議論するつもりはないが、少なくとも自分がこれまでやり取りがあった外国人ビジネスマンから、そのようなスタイルのメールは一度も受け取ったことがない。何のことはない、要は“ガラホ”ならぬ“ガラメール”である。(因みに巷では、最近この種のメールの送り方を“PPAP方式”を呼んでいるらしい。“Password付きzipファイルを送ります、Passwordを送ります、An号化(暗号化)Protocol(プロトコル)”の略だそうだ。)

 

さて、話が脱線したが、郵便局からの“本人限定受取郵便のお知らせ”の封を開けると、今度は、配達してほしい日時を電話で連絡しろと言う。また、電話ですか。全く、就任当時のやる気満々の様子から一転、最近は生きているのかどうかもわからないほど存在感が薄いIT担当大臣さんは、今は一体何をしてるんだ、などと八つ当たりしたくなる気持ちを抑え、指定された番号に電話した。

郵便局のオペレーターさんには翌日午後配送の希望を伝え、無事配達予約を完了。そして今日が配達日だ。

 

さて、この本人限定受取郵便、ご想像の通り、“置き配”はNGだ。何しろ受け渡しの際には、運転免許証などの本人を証明する書類の提示と共に、“印鑑”の押印が必須なのだ。この方式、今のご時世から考えると、一体どうなんだろうと思ってしまう。新政権発足後、“目に見える”成果はほとんどないが、その数少ないものの一つが “印鑑”の廃止だったのでは。郵便配達員さんも気の毒だ。新型コロナ感染のリスクを考えれば、本心は、できるだけ顧客との接触は避けたいだろうに、顧客にハンコを押してもらうには、顧客の“腕の長さ”以上のディスタンスを取ることは、物理的に不可能だ。

我が家に訪れた配達員さんは、そんなことはおくびにも出さず、元気な声で“ありがとうございまーす!”と、言っていたが、こちらとしては、(そんな大声出したら、飛沫が飛ぶ可能性も上がるから、もっと静かで大丈夫ですよ。なにしろ、こちらは呼吸器系疾患の既往があるジジイなんだから…。)と、内心ドキドキだ(因みに、その配達員さんがしていたマスクは、最近評判の悪いウレタン製だった)。

Z銀行から送られてきたのは、振込先の口座番号等を記載する用紙と返信用封筒。因みに返信は“普通郵便”です。これって、本当にセキュリティ的に大丈夫なのか?わざわざ顧客に電話させ、ソーシャルディスタンスが取れない“本人限定受取郵便”で用紙を送ってきた割には、最後の詰めが甘いのでは?これなら、ネット経由で口座番号を登録しても、情報漏洩リスクに大して違いはない、というか、ネット経由の方がよほど安全では、と感じるのは、私だけだろうか。

 

それにしても、“郵政民営化”とは何だったのだろうか?劇場化された選挙で “刺客”を送ってまで成し遂げた割には、今も郵便局はハンコ廃止の流れにも乗れないほど、旧態依然の体質で、その一方、“かんぽ”では、顧客を食い物にして、不正三昧。一体、何ための民営化だったのか。現環境大臣のお父さんも、当時と違い、随分角が取れたご様子なので、一度、お考えをお聞かせ頂きたいものです。