アラ還オヤジの備忘録

雑感や、その他諸々。

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iDeCoの“デスバレー(死の谷)”

素人投資家が憂う日銀のETF購入はNISAの話だったが、今回はiDeCoである。財テク雑誌などを見ても、NISAとiDeCoは、両方とも頻繁に取り上げられていて、どちらが得だとか、或いは両方活用を“賢く”活用しましょうとか、まあ、NISAもiDeCoも投資しておいて損はないという趣旨の話がほとんどと思う。

 

以前、自分が社員数10人くらいの外資企業の日本支社を預かっていた時のこと。優秀な社員を獲得するためには、福利厚生も充実させねばと、あの手この手を打っていたのだが、最大の難関は退職金制度だった。何しろ退職金を出すには“原資”がいる。当時の日本支社の売り上げ規模から考えても、本社の人事部門が日本独自の退職金制度にOKを出すとは、到底考えられなかった。仕方なく、その当時は、まだ発刊されたばかりだった「小さな会社のための新しい退職金・企業年金入門」(山崎俊輔著)なども読んで“勉強”した。

結果、社員達には、自社の退職金制度の代わりに、まずはiDeCoを活用してもらおうと、銀行からファイナンシャルプランナーの方にオフィスまでお越し頂いて、説明会を開いたりしていた。

 

社員数10人と言っても社員のプロファイルは様々で、20歳代の若手もいれば60歳を超えた“ベテラン”もいた。iDeCoの説明会には、そんなベテランも参加するのだが、説明会が終わって当然出たのは、 “なんだ、60超えたら入れないんじゃないの”という不満の声である。

そう、当時、iDeCoの加入年齢は60歳未満、つまり59歳までだった。“当時”といっても今から3年ほど前である。そんな昔のことではない。すでに“65歳定年”は当たり前である。それにもかかわらず、iDeCoの加入は59歳まで。全く、“お国”のやることは万事この調子と、諦めにも似た気持ちになったものだ。

 

そんな状況を変えたのは、今年5月に行われた法改正。60歳未満だった加入条件が65歳に引き上げられた。めでたし、めでたし、と終わりたいところだが、さにあらず。実は法改正は今年の5月だが、施行は2022年の5月、何と2年後だというのだ。それでは、今年60歳になる人はどうすればいいのか。ファイナンシャルプランナーさんがやっているウェブサイトなどをみると、親切にも「2022年5月より前に60歳になるiDeCo加入者は、2022年5月に再加入できるように、60歳の時点で受け取り手続きをしないように」などとアドバイスして下さっている。要は、法改正が今年の5月でも、施行は2年後、それまでに60歳になる人の加入期間は、そこで一旦終了です、ということだ。全くもって、“不細工” な制度設計と言うより他ない。2年後に再加入可能とわかっているなら、そのまま加入を継続させれば何の問題もなかろうに、それをわざわざ一旦“脱退”させ、2年度に再度加入の手続きをしろとは、一体どれほど無駄な労力を国民に負わせたら気が済むのか。余りの“イケてなさ”に、60歳の誕生日を境に突然訪れるこの未加入期間を、“iDeCoのデスバレー(死の谷)”と命名することにする。( “人に関心を持たなくてはならない”の著作権は誰にある?に出てきたエリック・シュミット達と違い、著作権を主張したりはしない。“デスバレー”と言えば、ベンチャー企業界隈では、手持ちのキャッシュよりバーンレートが勝り、資金が底をつく状況のことを指すが、まあ、それくらい有難くない状況ということだ。)

 

因みにiDeCoの加入には、年齢以外にも “国民年金被保険者”という条件が付いている。自営業者などの第1号被保険者は、そもそも60歳で国民年金被保険者の資格を喪失するから、法改正後も60歳以降はiDeCoに加入することはできない。アントレプレナーにセーフティネットは不要かは、失業保険受給資格についての国のちぐはぐな政策についてだったが、こちらも“ちぐはぐ度” は似たようなものだ。国の政策として開業率を増やしたいのなら、自営業者への“手当て”も時代に即したものにすべきだろう。一昔前なら、“自営業者”と言えば、農林業や小売業などの“家業を継ぐ”人たちが中心だったが、今では、専門知識を生かしたコンサルなどのフリーランス業にシフトしてきているのは総務省労働力調査からも明らかだ。そんな新しいタイプの自営業者達が“老後に備える”上で、サラリーマン達と“差別”される道理はないと思うのだが。

素人投資家が憂う日銀のETF購入

先日、久しぶりに外出した。ダイニングの電球が切れてしまったので、近所の大型電気店で購入することにしたのだ。不要不急の外出は控えることにしているが、ダイニングが暗いままでは夕食も覚束ない。まあ、平日の午前中であればそれほど混んでもいないだろうということで、切れた電球も持参で(替えの電球の購入では、これまで何度も痛い目にあっているので、必ず切れた電球も持っていくことにしている)カミさんと車で出かけたのだ。

うちの近所には、有名どころの大型電気店は一通り揃っている。その中でも、よく利用するのはK’s電気だ。なぜかわからないが、なんとなくK’sで買い物をすることが多い。個人的な印象だが、他店と比べて店員さんの人柄がよいような気がする。しかし、今回の行先はビックカメラだ。どうしてか。それは、ついこの間、ビックカメラから株主優待の金券が届いたからだ。

 

自分が株を始めたのは2014年から。そう、NISAが始まった年だ。それまでは、株などというものは素人が手を出したら大変な目に合うに違いない“怖いもの”としか思っていなかったのだが、国が新しく制度を作るなら、何か“お得な”インセンティブがついてくるのに違いないと、ろくに勉強もしないまま、ネット証券に口座を作ったのだ。

その後は毎年、NISAの年間枠を超えない範囲で、手持ちの株を増やしてきた。全く、国の思惑通りに行動する、国民の鏡のようだと自分でも思うが、それを小市民的行動と恥ずかしがる歳でもない。

 

そうやって毎年“買” ってきた株だが、実はほとんど“売” ったことがない。唯一の例外はパルコ株で、昨年末に親会社のJ.フロントリテイリング(大丸と松坂屋ホールディングスの共同持株会社)がTOBを実施したことから、上場廃止となってしまった。パルコの株主優待は金券の他、映画の無料鑑賞券もついていて、とても気に入っていたのだが、泣く泣く手放すより仕方なかった。それでもTOBということで、購入価格よりずいぶん高く売れたのだから、ヨシとしよう。

 

その一方、コロナ禍の影響で今年の3月19日に東証が年初来安値を付けたときには、正直(どうしたものか)と思った。理想的には2月下旬に下落傾向が顕著になった段階で手持ちの株を売り、3月19日以降、株価の回復傾向が見えた段階で買い戻すということなのだろうが、そんな才覚があるわけもなく、また、毎日株価の動向をウォッチするほど “力が入って”いるわけでもない。結局、(2~3年もすれば元に戻るだろう)ということで、何もせぬままほったらかしにしていたのだ。

 

それがどうしたことだろう、“2~3年”どころか、約8ヶ月後の先月後半には29年ぶりの高値を更新し、2万7千円台に迫る勢いだ。手持ちの株の価値が上がるのは、もちろんありがたいことだが、冷静に考えてみれば、新型コロナの感染再拡大が叫ばれ、経済の先行きも不透明な中で、株価が上がる材料が思いつかない。隠れトランプとアメリカ人上司でご登場頂いた師匠にも、「ロジックは何だ」と突っ込まれそうだ。せいぜい思いつくのは、外国人投資家や機関投資家あたりが素人には知りえない材料に基づいて買っているのか、という程度だ。ところが、思いもよらぬところから “新情報”が入った。うちのカミさん曰く、「日銀が買ってるみたいよ」。私以上に経済オンチの彼女が、一体どういう訳でそんな“ネタ” に食いついたのか、全く理解不能だが、内容の方もちょっと信じられなかったので、早速ネットでググってみた。すると、何と日経辺りの記事にも、11月に入ってからも日銀がETFを購入しているとあるではないか。これには心底驚いた。日銀がETFを購入して株価を下支えしているというのは、随分と前からたびたび報道されてきた。アベノミクスの“見栄え”をよくするためには、そのような“操作”も必要だったのだろう。しかし、この株価上昇局面で、それが必要だろうか?私はむしろ、日銀はこれまでに積み上がったETFをこっそり売っているのではないかとすら勘ぐっていた程なのだが…。市場の健全化という観点から見れば、それはそれでいいのではと思っていたのだが、まさか“買” っていたとは。この先もずっと日銀が株価を買い支えることが可能なのであればそれでも構わないが、このまま行けば、いずれ二進も三進もいかなくなる時が来るように思う。その時こそ、(2~3年もすれば元に戻るだろう)と悠長なことを言っていられなくなるのではないか。NISAがきっかけで株投資を始めた一般人が、この先、官製バブル崩壊が原因で、大きな損失を被るようなことになれば、それこそ目も当てられない...。

 

ビックカメラでは、株主優待の金券を使って、無事買い物ができた。やはり、切れた電球を持って行ったのは大正解で、あれがなければ、とても購入できなかった。最初は自分達で、売り場の中から替えの電球を探そうとしたのだが、余りに種類が多すぎて、どれが“正解”か見当もつかない。仕方なく、売り場の店員さんに、切れた電球を手渡し、「これの代わりを探してほしい」とお願いすると、親切に対応頂き、すぐに商品を見つけてくれた。店員さんの人柄で店を選ぶのであれば、ビックカメラも悪くないなと思ったのだった。

「両立」しないもの

近頃テレビのニュースを見ていて、気になっているフレーズがある。「感染防止と経済活動の両立」だ。それが可能なら、それに越したことはないが、実際問題、本当に“可能” なのだろうか?

 

「感染防止と経済活動の“両立”」というフレーズを聞いて思い出されるのは、トム・デマルコの「ゆとりの法則」(原題:Slack、訳:伊豆原弓)の中の一節だ。

ある日デマルコは、友人であるケイパーズ・ジョーンズとホテルのロビーで偶然出会う。ケイパーズは、プロジェクトのスケジュール管理と見積もりを専門とする会社の創業者で、それらに関する分析ツールを開発している。彼は、ホテルのロビーでデマルコに分析ツールの最新バージョンのデモを見せる。プロジェクトに関するいくつかの質問に答えれば、プロジェクトの予想スケジュール、必要な人員の補給パターンなどを提案してくれるのだが、質問の中に、「何を最適化したいか」という項目があった。選択肢として、次の二つのラジオボタンが表示される。

  • 時間を最小限に抑える
  • コストを最小限に抑える

この、どちらか一方を選択しなければならないのだが、ケイパーズはデマルコに、次のように愚痴るのだ。

「この選択肢のことで、クライアントからずいぶん苦情を言われているよ。どうしても時間とコストの両方ともを最小限に抑えたいというんだ。」

そんなクライアントに対して、ケイパーズは、辛抱強く、二つの相互依存する変数を両方とも最小化することはできないと説明する。「『時間とコストの両方を最小限に抑える』という第3のラジオボタンを作りたい気持ちにもなる」とこぼしながらも、「論理的には馬鹿げたこと」というのが本心だ。このエピソードに対するデマルコの感想は、こうだ。

「この第3のラジオボタンへの需要は、現代の経営の悲しい現実を物語っている。」

 

自分の経験から言っても、このような要求をしてくるクライアントは少なくない。しかし、現実には、時間を最小限にするには、そのための追加リソースを投入しなければならない。リソースが追加されればその分コストもかかる。中には、「時間が短くなった分、リソースも減るのではないか」などと言ってくるクライアントもいるが、ちょっと考えてみれば、それが「論理的に馬鹿げたこと」なのは、すぐわかる。確かに、時間をゼロにすれば、リソースもゼロだ。そして、成果物もゼロなのだ。

 

ケイパーズのケースは、時間とコストの両方を“最小化する”だが、冒頭のテレビニュースのケースは、「感染防止効果」と「経済活動」の両方の“最大化”だ。 “大”と “小”の違いはあるが、「二つの相互依存する変数を両方とも最小化することはできない」のと同様に、二つの相互依存する変数を両方とも“最大化”することもできないと考えるのが「論理的」だろう。

 

デマルコは、「この第3のラジオボタンへの需要は、“現代の経営”の悲しい現実」と言ったが、日本が新型コロナ感染の第三波の脅威に晒されている中で、今、為政者達が語っているコロナ対策が、のちのち「“日本の政治”の悲しい現実」などと言われないことを祈るばかりだ。

“政治的”とは何か

どこの業界も似たようなものかもしれないが、自分がこの10年ほど身をおいていた業界は、本当に“狭い世界”だった。どの会社に勤めているどいつがどんな奴なのか、大抵わかってしまう。特にマネジメントレベルの人間は、業界内を魚が回遊するかの如く渡り歩いていたりするので、その人物と一緒に仕事をした経験があるという人たちもその分だけ多く、「ああ、Aさんね、あの人は…」というような感じで、ちょっと名前が出ただけで、滔々と語ってくれるという人も少なくない。かく言う私も、図らずも“回遊”していたクチなので、自分が知らないところでどんな風に言われているのか、考えただけでも恐ろしい。とにかく、一つ言えることは、“変なことはするな”ということだ。よい評判というのはなかなか広がらないが、悪い評判というのはあっという間に広がってしまう。“滔々”と話をする語り手の舌が滑らかになるのは、間違いなく“悪い”評判のほうだ。特にポジションパワーを“笠に着”ての道に外れた振る舞いは、“物語”の格好のターゲットとなる。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とは、よく言ったもので、こうあるべきと、誰もがわかっていても、実際には、なかなかそういう人物は少ないように思う。かく言う私自身も、周りからはどのように見られていたのか、今さらながら考えてしまうのだ。

 

さて、話がちょっと逸れてしまったが、“狭い世界”の続きである。ある時、外国人の上司が来日した時の話。彼は、私の直属の上司でアメリカ人。以前、隠れトランプとアメリカ人上司で、アメリカ人上司達との間の経験を紹介したが、今回の彼は、アメリカ人だが、大変な日本通で、日本語もかなり出来た。また、奥さんが中国人ということもあり、アジア的な価値観のようなものを理解している人だった。そんなわけで、彼は、私の経験したアメリカ人上司の中では、数少ない、自分第一主義な匂いが薄い人だった。そんな彼と、寿司屋でランチを共にしていると、彼から「あなたの前の会社の上司は、随分と“政治的”な人だと聞いていますが、実際、どうでしたか?」と尋ねられた。そもそも私の前の会社の上司が誰かを知っているという時点で“狭い世界”なのだが(私から、前の会社の上司が誰だったか話をしたことはおろか、その人物の名前を出したことも一度もなかった)、そう聞かれて、私は一瞬、“う~ん”と唸ってしまった。確かに、前の会社の上司(彼も外国人だ)は、余り評判の良い人とは言えなかった。私がその会社を辞めた後、彼もその会社を去ったのだが、余り幸せな辞め方ではなかったと、風のうわさで聞いていた。ただ、彼を“政治的”と言うのかどうか。そもそも“政治的な人”とは、どういう人のことを指すのだろうか…。

 

そんな経験が頭に残っていたのだろう、パトリック・レンシオーニの「あなたのチームは、機能してますか?」(原題:THE FIVE DYSFUNCTION OF A TEAM)を再読していた際、主人公のCEOが、“政治的”の意味をマネジメントチームに説明している場面が目に留まった。

CEOのキャサリンがマネジメントチームのメンバーに対して、「これほど政治的なグループは、あまり見たことがない」と言ったことに対して、COOのニックが「政治的というのがどういう意味か、正確に教えてもらいたい」と迫った。それに対するキャサリンの説明は以下の通りだ。

「政治的とは、自分が本当にどう考えるかではなく、ほかの人にどう反応してほしいかによって、言葉や行動を選ぶこと」。

 

実は、ここまで書いて、ちょっと引っかかることがあった。日本語の“政治的”と、英語の“politics”は同義なのだろうか?確かに私の上司もあの時、寿司屋で“political”という単語を使っていた。自分は、それを日本語の“政治的”と解釈したのだが…。

そんなわけで、本書の原著の該当する部分を見てみると、キャサリンのセリフの英語バージョン(というか、こちらが本家だが)は以下の通りだ。

“Politics is when people choose their words and actions based on how they want others to react rather than based on what they really think.”

本書の翻訳者もpoliticsを政治的と訳している。“Politics”と“政治的”は同義でよさそうだ。

 

件の“前の会社の”上司だが、この定義を踏まえた上で、彼の当時の言動を思い返してみると、確かに“政治的”と言われても仕方なさそうに感じられたのだった。

 

さて、話は変わるが、新型コロナウイルスの第三波は、いよいよ深刻な状況になってきた。首相、担当大臣、官房長官をはじめとする政府・与党、それ以外の国会議員、地方自治体の首長、専門家に医療従事者と様々な“ステークホルダー”がそれぞれの立場から発言をしているが、現場の窮状を率直に訴えるものがある一方で、「本気でそう思っているのか」と突っ込みたくなるような、まさしく“政治的”な発言も少なくないと感じるのは私だけだろうか。第二波が収まったころならまだしも、今は、何かを忖度している状況ではなかろう。手遅れにならないことを願うばかりだ。

社長の仕事と“仕組みと仕掛け”(そして、コロナ対策の優先順位)

その昔、自分がある会社の代表取締役だった頃の話。何人かの若手社員から、次のような質問を受けることがあった。「社長の仕事って、何ですか?」。

こんな質問を二回り以上離れた若造から受けるというのは、よほど風通しのいい会社だったのか、或いは、社長の威厳のなさからか。前者であれば、救いもあるが、どうも後者のような気がする。「無駄なヒエラルキーがなくていいじゃないか」と思われるクチもあろう。自分でも、そういう良さもあるのではと思ったこともあったが、先日、「指導者とは」(原題:LEADERS、リチャード・ニクソン著)を再読して、(やはり、それではいけなかったのだ)と再認識させられた。

(本書については、いろいろ書きたいこともあるが、それは今日のお題から離れるので、そちらはまたの機会にして、先に進む。)

 

「社長の仕事って、何ですか?」という質問に対する回答だが、その時々のシチュエーションや相手次第で、次の2パターンを使い分けていた。

パターン1:「社員が食いっぱぐれないようにする」

パターン2:「会社がうまく回る“仕組みと仕掛け”を作る」

 

パターン1は、偽らざる心境だった。立ち上げメンバー三人でスタートした会社には、かつての部下や後輩も誘って、大きくしていった。彼らのほとんどは、名の通った大企業の社員だった。そんな彼らが、安定した企業人生活(と、それに伴う家庭生活)を顧みず、自分と一緒に仕事をしますと言ってくれたのだ。家族からの反対もあったろう。ある日、社員の家族を招待して、ランチクルーズを催した時のこと。業界最大手の会社から引き抜いたかつての部下はMBA保有者で英語も堪能、転職しようと思えば、引く手あまたに違いない人物だった。彼は、そのランチクルーズに奥さん同伴で参加したのだが、その時、彼の奥さんが私に向けた、「こんな人物が社長をやっている会社で、本当に大丈夫なのか」という厳しい眼差しを忘れることができない。何が何でも会社を成功させて、彼らが路頭に迷うようなことは断じてさせないと心に誓ったのだった。

 

パターン2は、質問してきた相手が、(自分も将来、会社を興したい)というような願望を持っているのでは、と思われるときに、そう答えることが多かったように思う。そして、私の回答に対する相手の反応は、やや期待外れ、というようなことが多かった。相手はそれを、(当たり前)と感じたか、或いは(仕組みと仕掛けを作るのは社員の仕事で社長は決裁するだけ)と思ったかもしれない。

 

上場企業のような大会社では、社長は決裁するだけかもしれないが、スタートアップはそうは行かない。社長は先頭に立って、仕組みと仕掛けを作り続け、社員にはその実行を徹底させる。上手く行けばいいが、上手く行かないこともある、というか、ほとんどの場合、上手く行かない。そして、失敗に凹む間もなく、次の手を打っていくのだ。

 

仕組み・仕掛けが上手く行かない場合、そこから期待された効果が得られないだけなら、まだいいが、それに加えて、思わぬ副作用が発生することも少なくない。

ベン・ホロウィッツは、自著「HARD THINGS」のなかで、自らの失敗談を明かしている。

彼はオプスウェアを経営していた時、「非線形四半期問題」の解決に取り組んだ。いわゆる「ホッケースティック」というやつで、四半期の売上の多くが期の終わる間際(酷い時には売上の90%が四半期最終日)に計上された。これでは事業計画が立てにくいということで、この問題を解決するために彼が取った“仕組み・仕掛け”は、四半期(3ヶ月間)中、最初の2ヶ月の間に契約がまとまった場合にボーナスというインセンティブを与えるということだった。結果、どうなったか。確かに“ホッケースティック”の曲がりは多少まっすぐになった。一方、売上は減った。社員達は、期の終わる間際に計上させる売上を、次の期の最初の2ヶ月に移しただけだったのだ。社員達は、社長の望み通り、「期中の売り上げを平坦にすること」を第一優先にした。しかしそれは、それまでの第一優先、すなわち「売上の最大化」の優先度を下げることだった。ホロウィッツの、「私は以前の売上を最大化する優先順位のほうが好きだった」との弁は、やや自嘲気味だが、私はこの失敗を笑うことができない。このようなはっきりとわかるケースほどではないものの、似たようなことは会社経営の中では日常的に起きている。一度作った“仕組み・仕掛け”が、重要度の優先順位にそぐわないとわかれば、朝令暮改などの誹りを受けようとも、速やかに撤廃、或いは修正しなければならないのだ。

 

一方、“仕組み・仕掛け”の成功例で思い出されるのは、「ティッピング・ポイント」(原題:The Tipping Point、マルコム・グラッドウェル著)の中で紹介されているサンディエゴの黒人地区で行われた乳がんに関する啓発キャンペーンの事例だ。

資金が限られる中、キャンペーンの実施者は当初、教会でセミナーを開いていたが、結果は惨憺たるものだった。そこで、彼らは、キャンペーンの実施場所を、教会からある場所に移したところ、状況が劇的に改善したという。そこはどこか。なんと「美容院」というのだ。彼らが、何故そのような場所にたどり着いたかについては、本書を読んで頂きたいが、一見何の関係性もない乳がんと美容院を結び付けた“仕組み・仕掛け”は、エレガントと言うより他ない。自分もそんな“仕組み・仕掛け”が作れたら、と思わずにはいられない。

 

さて、話は変わるが、10日ほど前に“第三波”とスーパーコンピュータの中で、“やっぱり来たか、第三波。”などと呑気なことを言っていたが、その後、これほど急激に新型コロナ感染状況が悪化するとは、正直、予想していなかった。Go to キャンペーンという“仕組み・仕掛け”が失敗であったことは、疑う余地がないだろう。ホロウィッツが間違って「売上の最大化」の優先度を下げてしまったように、「感染再拡大の阻止」の優先度を下げてしまったのだ。もう一度言う。「一度作った“仕組み・仕掛け”が、重要度の優先順位にそぐわないとわかれば、朝令暮改などの誹りを受けようとも、速やかに撤廃、或いは修正しなければならないのだ。」

“人に関心を持たなくてはならない”の著作権は誰にある?

ビル・キャンベルの名前が最初に自分の頭にインプットされたのは、ベン・ホロウィッツの「HARD THINGS」を読んだ時だ。

キャンベルは、ホロウィッツが創業したラウドクラウドの取締役で、本書の中にも二人のやり取りが何度か出てくるが、それとは別に、ホロウィッツはキャンベルの人物像を詳しく紹介している。そんな中でも、最も興味を惹かれたのは、キャンベルがCEO を務めたGO Corporationでの逸話だ。1994年に廃業したGOは、ビジネス的には決して上手く行ったとは言えなかった、というより大失敗だったのだが、そこで働く人々は、ホロウィッツによれば、「ひとり残らずこの会社を人生でもっともすばらしい職場のひとつだと思っていた」。そして「ほかのことはともかく、ビルのようになって良い会社をつくってほしい。」と結んでいる。社員たちが「稼ぐ」ことができなかった会社に対してこのような賛辞を贈る理由について、ホロウィッツはGOのことを「人生最高の職業体験」や「働きやすい職場」と説明しているが、自分としては、消化不良は否めなかった。「HARD THINGS」は、ビル・キャンベルについての本でもなく、勿論GOについてのものでもないので、そのうち、ビル・キャンベルについての本が出ないかと思っていたところで出会ったのが、「1兆ドルコーチ」(原題:Trillion Dollar Coach、エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アラン・イーグル共著)だ。

この本、ページ数は300を超えるが、文字は大きく行間も広い。以前、FTEとプロジェクトの”炎上”の中で、トム・デマルコの「ゆとりの法則」を紹介した際、“著者自身も、ニューヨークからシカゴ、あるいはアムステルダムからローマに向かう飛行機のなかで、最初から最後まで読めるようにまとめたと言っているほどなので、読了にそれほどの時間はかかるまい。”と説明したが、“軽く”読めるという点では、本書もいい勝負だ。

 

さて、内容だが、本書で説かれているビル・キャンベルの“教え”のエッセンスは、ホロウィッツの「HARD THINGS」でかなりの部分が既に紹介されているという印象だ。以前、一人のマネージャーは何人のスタッフを持てるのかの中で、“ホロウィッツはグローブの熱烈な信奉者で、非常に大きな影響を受けていたであろうことをうかがい知ることができる”と書いたが、ホロウィッツは、オペレーションについては、アンディ・グローブのやり方を見習う一方、メンタル的な面については、ビル・キャンベルに感化された部分が大きいのではないか。そういう意味では、既に「HARD THINGS」を読まれた方には、敢えて本書を手に取るまでもないかもしれない。ただ、既に述べた通り、本書は“軽い”ので(「HARD THINGS」の方は、幹部を解雇する際の心構え等、かなり“重い”内容も含まれている)、試しに読んでみるのもいいかもしれない。

 

さて、そんな訳で、すでに「HARD THINGS」を読んでいた私にとっては、「1兆ドルコーチ」を読んでの新たな“学び”は、それほど多くはなかったとも言えるのだが、一か所、気になる部分があった。 “Chapter 5 パワー・オブ・ラブ 「やさしい組織」になる” の中の以下の記述だ。

 

「人を大切にするには、人に関心を持たなくてはならない」。これは私たちがビルとの会話で何度か聞いた言葉だ。何か古い名言のようだが、そうではない。少なくともネット検索では見つからなかった。よって私たちはここに著作権を主張する─「人を大切にするには、人に関心を持たなくてはならない」!

 

正直、この部分を読んだときは、思わずのけぞった。“著作権を主張する”とは、いかにも強欲なアメリカ人ビジネスマンの発想だが、この文章を読んだときに、私には「人に関心を持たなくてはならない」の出所について、ピンとくるものがあったのだ。デール・カーネギーの「人を動かす」(原題:How to Win Friends and Influence People)だ。

この本については、今さら内容を紹介する必要もないだろう。Amazonの商品説明に、“日本で500万部突破の歴史的ベストセラー。人が生きていく上で身につけるべき「人間関係の原則」を実例豊かに説き起こした不朽の名著。”とある通りだ。実は、本書の中で、カーネギーは、わざわざ「誠実な関心を寄せる」という章をたて、人間関係の中で、他人に関心を示すことが如何に重要かを説いている。さらに言えば、カーネギーは、そもそもこの言葉はアルフレッド・アドラーの著書の中にあると言うのだ。(残念ながら、私には、アドラーの、どの著書がそれにあたるのかは、見当がつかなかったが…。)

 

こうして見ると、キャンベルの“教え”には、「人を動かす」の中に述べられていることとの共通点が非常に多いように思う。もしかしたら、キャンベルも「人を動かす」の読者だったのか、そんな想像をしてしまうほどだ。

 

それにしても、本書「1兆ドルコーチ」の三人の著者はGoogle関係者、エリック・シュミットに至っては元CEOである。それが、“少なくともネット検索では見つからなかった”とは…。検索エンジンを作ることにかけては天才的な彼らも、それを使って実際に検索することは、意外と不得手なのか。思わずそんなことを考えてしまったのだった。

“第三波”とスーパーコンピュータ

やっぱり来たか、第三波。昨晩のNHK“NEWS きょう一日”によると、昨日(11月13日)は、全国で合計1705人の新型コロナウイルス感染が発表され、過去最多となった12日をさらに上回ったとのこと。

 

当然と言えば、当然だ。Go To トラベルにGo To Eatと、政府は感染リスクを“増大”させる施策にご執心な一方、リスクを“低減”させる施策については、ここ数ヶ月の間、一切手を打ってこなかった。減る要素がないのだから、患者数が増えるのは当たり前だ。「強い警戒感を持って注視」などと言えば、聞こえはいいが、要は、ただ“眺めていただけ”だ。感染者数を抑えるための具体的なアクションは一切ない。企業であれば、会議の席で「強い警戒感を持って注視した結果、何もしなかったので業績が下がりました」などと宣う阿呆がいれば、即クビだが、政治の世界は違うようだ。

 

そもそも、コロナウイルスについての日本政府から国民に対するアナウンスメントは、最初から首をかしげるものばかりだった。2月頃に盛んに言われていたのは、「“正しく”怖がりましょう」というキャッチフレーズと共に、「マスクは予防には効果はありません」というものだった。あたかもマスクを買い求める国民に、「マスクをするのは愚かなことだ」と言わんばかりの勢いだった。

 

それが今はどうだろう。マスクをしなければラーメン屋にも入れないご時世だ。日本が世界に誇るスーパーコンピュータ「富岳」も、マスクをした場合としない場合とで、咳をした際の飛沫の飛び方、さらにはマスクの材質毎の特性まで計算し、テレビニュースでも盛んに取り上げられている。正直に言うと、「あれをスパコンで計算する必要があるのかなぁ」とも思う。咳をすれば飛沫が飛ぶのは当たり前、詳細まではわからなくとも、向かいの家に住むおばあさんに富岳と同じ質問をしても、似たような答えを聞けそうだ。要は、富岳が出した結果は、日本人の「常識」と大きくは変わらないのだ。その一方、なんとなく「常識」と思っていたことに、富岳が「お墨付き」を与えたという意味は大きいかもしれない。2月のように、テレビニュースで専門家(?)が「マスク不要論」を唱えたところで、「富岳もマスクが有効と言っている」となれば、皆マスクをするのだ。風邪が流行ればマスクをするという、新型コロナ前からの日本人の「常識」を富岳が取り戻してくれたのだ。

 

話は変わるが、東アジア各国の新型コロナ感染状況を調べてみた。出典はジョンズ・ホプキンス大学作成のダッシュボード。11月14日午後1時29分のデータだ。(一日当たりの数字は11月12日分。)

 

感染者数累計

死亡者数累計

一日の感染者数

一日の死者数

日本

115,360

1,864

1,644

7

中国

91,807

4,742

31

0

韓国

28,338

492

191

1

台湾

597

7

5

0

6月、欧米で感染拡大が収まらない一方、日本が第一波を乗り越えた際、その理由に「民度」を挙げた政治家がいた。では、現在の東アジア各国の中で、日本の一日当たりの感染者数が突出している理由を何とするか。やはり「民度」ですか?

 

意地悪を言うつもりはないが、その原因を明らかにしない限り、感染の封じ込めは難しいと思う。そこで期待したいのが富岳だ。東アジアの国々との比較であれば、遺伝子・人種に由来する“ファクターX”があったとしても、国毎で大きな違いはないはずだ。各国の政策の内容、実施時期や規模等を富岳に入力し、何故日本だけがこのような状況に陥ったのか、是非分析してもらいたい。咳の飛沫の飛び散り方のシミュレーションよりも、よほど富岳の“ポテンシャル”を示すのにふさわしいテーマと思う(飛沫の解析が無駄だと言っているのでは決してないので悪しからず)。

 

これらの国の中には、徹底的にPCR検査を実施する国もあれば、必要以上のPCR検査は無意味だとして、感染者数が多いにもかかわらずPCR検査数は他国と比較して少ない国もある。海外からの入国者に対して、2週間の隔離を徹底している国もあれば、隔離どころか待機すら免除する国もある。これら政策の違いが、感染者数にどのように影響しているのかがわかれば、より効果的な施策を実行することが可能になるはずだ。

 

PCR検査数に関する統計学の専門家の説明は理解しているつもりだ。しかし、その一方で、自分がこれまでに培ってきた「常識」は、検査数を増やした方がいいのでは、と囁いているのも事実である。学問が導き出す理論が「常識」を否定するのか、或いは再び富岳が「常識」に軍配を上げるのか、興味があるところだ。