アラ還オヤジの備忘録

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“ほっこり”に遺憾

今年の三が日は初詣に出かけることも出来ず、ウチに籠ってテレビ三昧だった。といってもバラエティー番組は苦手なので、録り貯めていた映画やドラマなどを片っ端から観ていたのだった。

年末年始ということで、テレビ各社とも力の入ったドラマや、大ヒットした映画等、見るべきものはいろいろあったのだが、その中で、一番楽しめたのはと聞かれれば、テレ東で放映された「絶メシロード」の特別編ということになろうか。

 

このドラマ、昨年頭から同局の深夜ドラマ枠で放映されていた。既視感のあるグルメ番組の体(てい)を、最初は(〇独のグルメみたいなものだろう)と何の気なしに見ていたのだが、そのうち、その“脱力さ”加減が、就寝前に観るにはちょうど良く、結局、全話を観ることになってしまった。本編は昨年春には終了したのだが、今回は新春特番が放映されるのを新聞のテレビ欄で発見し、予約したのだった。

内容は、昨年放映の本編とほぼ同じ進行ながら、“元旦スペシャル”ということでエピソードは二つ。特に、後半の軽井沢の洋食屋の話がよかった。一緒に観ていたカミさんは、「このマスター役の俳優さんは久しぶりに見たわね。誰だったかしら?」などと宣っていた。(“トミーとマツ”に出ていた国広富之に決まってるだろう)と心のなかでは毒突きながらも、「そうだねぇ」などと生返事をしながら、最後まで楽しんだ。

 今回の二つのエピソードもそうだったが、ドラマ全体のトーンとしては、コミカル&ハートウォーミングな内容に、“店の終わり”というペーソスが隠し味として効いているというところか。もしかすると、このドラマの雰囲気を言い表すのに“ほっこり”という言葉は使われる方もいるかと思うが、実は、自分はこの“ほっこり”という言葉が苦手だ。

 

そもそも、この“ほっこり”、自分が子供の頃、というより大人になってからも、暫くはあまり使われることがなかった言葉と思う。では、最近出てきた言葉なのかというと、そうでもないようだ。手元に昭和51年(1976年、今からおよそ44年前だ)出版の広辞苑第二版補訂版があるが、それを見ると、「ほっこり」の項があり、「①あたたかなさま。ほかほか。」とある。因みに②は“(上方方言)やきいも”、③はなんと“疲れたさま”である。

 

そんな“ほっこり”が、ある時から急に使われ出すようになった印象なのだが、一体いつ頃からだろうか?思い出されるのは、モヤモヤさまぁ~ず2のアシスタントが大江麻理子アナから狩野恵里アナに変わった頃のことだ。確か、狩野アナになってから間もない頃の放映だったと思うが、何かの感想に、狩野アナが“ほっこり”という言葉を使うと、さまぁ~ずの二人の反応は(むむっ…)という微妙なものだった。“ほっこり”に対するその当時の自分の反応もそのようなものだったので、妙に記憶に残っているのだ。その後、“ほっこり”という言葉は、度々聞くようになったが、自分の中での印象は従来から変わらないままだ。聞けば何となくこそばゆく、使うことは憚られるような…。話は変わるが、狩野アナは最近あまり見かけなくなったように思うが、如何されているのだろうか。自分の役回りに徹し、求められれば躊躇なく「クックドゥードゥルドゥー」と大声で叫べるような、真っすぐで生真面目なキャラは、なかなか得難い人材と思っていたのだが…。

 

そんな“ほっこり”と同じく、自分の中で引っかかっている言葉が“遺憾”だ。何か“やらかした”時にこの言葉を使うのは、大企業から、政治家、官僚、はたまた警察、検察に至るまで、実に幅広い。一方、(本当に意味が解っているのか?)と首を傾げたくなるような使い方を耳にするのも少なくないと感じる。再び広辞苑第二版補訂版を紐解いてみると、こうある。

 

い・かん【遺憾】 のこりおしいこと。残念。気の毒。

 

ここには、“謝罪”の意味は全く含まれていない。やらかした当事者・関係者が「遺憾だ」などと言うのは、明らかに使用法を間違っている。遺憾なのはこちら側であって、そちらが言うべきは「申し訳ございません」だろう。普段頭を下げることに慣れていない組織のトップが、意味もよく解らず、遺憾と言っておけばそれで済むと思っているのだろうが、そもそもそんな人間が上に立つ組織は、ほぼ間違いなく“腐って”いると断言できる。自らの組織の不始末を公の前で謝罪するからには、よほど言葉を慎重に選んだうえでその場に臨むというのが組織の長のあるべき姿だろう。それが出来ないトップが率いる組織のレベルなど、たかが知れている。

 

一方、何か“やらかされた”際にもこの言葉を耳にすることがある。例えば主権を侵害された国の政治家が、相手国に対して「遺憾だ」などと言うケースだ。しかし、これも随分とおかしな使い方だ。領海侵犯されたときに「残念です」という反応で、本当によいのだろうか?官房長官が記者会見で「遺憾だ」と言った内容が、先方のお国の言葉で「残念です」などと翻訳されていたとしたら目も当てられない。「そんな腰の砕けた反応なら、もっとやっても大丈夫」と思われても仕方なかろう。

 

 国を率いるトップの皆さんは、国民から「遺憾だ」などと言われることのないよう、くれぐれもご注意を。

アビガン承認見送りとローレンス・クラインの“悪徳”

先週は、新型コロナの感染急拡大(爆発?)や「桜を見る会」を巡る安倍晋三前総理秘書の略式起訴と本人の衆参両院議院運営委員会に出席等、いろいろなニュースがあったが、自分の中で一番刺さったのは、「アビガン承認見送り」だ。

厚生労働省は12月21日、ファビピラビル(商品名アビガン)の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)治療薬としての薬事承認を見送ったとのこと。一体何があったのか?

アビガンと言えば、そもそも前首相が在任中に記者会見で「5月中に承認」などと言っていたのが、その後のすったもんだで、最終的に製造元の富士フイルム富山化学が効能・効果追加申請したのが10月16日。それが二か月以上経って、承認“見送り”とは。

 

報道によると、アビガンの有効性・安全性を審査した薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会で、試験デザインが「単盲検比較試験」だったことが問題にされたとのこと。しかし、富士フイルム側のコメントによれば、試験計画は「PMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)の合意を得ていた」という。もし、それが本当であれば、一体何の為の合意だったのか?因みにこのPMDA、ただで相談に乗ってくれるわけではない。PMDAのウェブサイトによると、医薬品申請前相談(希少疾病用医薬品以外)は、一相談当たり9,497,400円。ほぼほぼ一千万円だ(希少疾病用医薬品は7,130,100円。因みに“希少疾病”とは、国内の患者数が五万人以下の疾患のこと)。アビガンでの“PMDAの合意”が、どのような経緯で得られたのか報道には記載がないが、相談料をたんまり取られたうえでの“手のひら返し”であれば目も当てられない。自分は富士フイルムには縁も所縁もないが、心からの同情を禁じ得ない。

 

そもそも、その薬がヒトの役に立つか否かを、どうやって判断すべきなのか。教科書的には“二重盲検”比較試験で“統計的有意性”が証明される必要がある。今回の審議会の結論も、そういう判断基準によるものと言われれば、富士フィルムとしては反論が難しかろう。しかし、そのような“教科書”的な判断基準に合致する試験計画を、いつも組めるわけではない。“二重盲検”ということは、医者も患者も、飲んでいる薬が“本物”か“偽物”か、わからないということだ。いわゆる生活習慣病のようなものならまだしも、生死を分けるような疾患で、自分の飲んでいる薬が“偽物”かもしれないという状況を想像してほしい。これは「単盲検」の状況だ。そんな治験への参加に同意された患者さん達には頭が下がる思いだ。しかし、その状態からさらに、薬を投与している医者も“本物”か“偽物”か、わからないとしたらどうか。私なら、今の新型コロナ感染状況の中では、同意書にサインすることは到底できない。

 “統計的有意性”を証明するためには、薬の“パワー”に応じた症例数が必要だ。生活習慣病をたびたび引き合いに出して申し訳ないが、そのような患者数の多い疾患であれば問題ないが、新型コロナのような疾患では、かなりの制約があることは容易に想像できる。そんな中、“統計的有意性”を示すことができる症例数を得るために、試験デザインを「二重盲検」でなく「単盲検」にしたとして、それを責めることができるのだろうか。

 

一方、この“統計的有意性”が“金科玉条”化していることについても問題がある。こんなことを言うと、“素人が何を言っているのか”と統計学者たちから冷笑されそうだが、実はこの指摘は私によるものでない。ディアドラ・N. マクロスキーは、その著書「ノーベル賞経済学者の大罪」(原題:The Vices of Economists-The Virtues of the Bourgeoisie、赤羽隆夫訳)の中で次のように述べている。

「ある点で、私たちは機械的な統計処理から離れ、『その何が重要なの?』という常識から発する疑問を問い掛けるべきである。」

「重要な点はどれだけ大きい効果がえられるかである。効果の大きさはどれほど人間に役立つかによって判断されるのであり、決して恣意的に定義された『統計学的有意性』によって判断されるものではない。」

 

さらにマクロスキーは、「統計的有意性」(statistical significance)を「科学的重要性」(scientific significance)と同一視(混同)したとして、これをローレンス・クラインの「悪徳」と表現している。ローレンス・クラインといえば、第12回目のノーベル経済学賞受賞者だ。このように書くと、「マクロスキーの主張は、経済学についてであって、医学に対してではないだろう」と思われるかもしれないが、さにあらず。マクロスキーは「悪徳」の事例として、医学に関するエピソードを、これでもかというほど紹介している。まるで、経済学批判の体を取りながら、実は医学に対する批判が目的では、と勘繰りたくなるほどだ。

蛇足になるが、本書のなかでマクロスキーは、統計学の専門書からの引用として、こんな指摘もしている。

「標本規模が十分に大きくなれば、すべての回帰曲線は有意になる。」

結局、どれだけ患者数を集められるかどうかで、医薬品開発の成否が定まるということか。

 

マクロスキーの主張が、所謂「主流派」でないことは明白だ。しかし、新型コロナの感染が急拡大する中で、統計学的に“理想的”な条件を満たしていないという理由だけでアビガンの承認を見送るというのは、まさに「どれほど人間に役立つか」という視点が欠落した“悪徳”の結果と感じるのは、私だけだろうか。

マーラーとたいやきくん(そして、“一流の政治家”がしないこと)

以前、“目覚めの音楽”のおすすめは?で、毎朝、目覚まし時計代わりに、レスピーギ作曲の「ローマの噴水」のCDをかけている話をしたが、その時、「以前は別の曲だった」と書いた。今日はその別の曲の話。

 

「ローマの噴水」が気に入っている理由は、曲が始まってからしばらくの間は寝床で微睡んでいられるような曲調が続き、その後、寝床を出ざるを得ないような大音量になるところだが、前の曲も同じ理由からの選曲だった。“しばらく静かで、その後大音量”ということだけであれば、いろいろな曲があると思うが、できれば目覚めにふさわしい“明るい”曲を選びたい。コードはメジャーで、“大音量”のパートは、元気の出そうな旋律のもの。そんな基準で選んだのは、マーラー交響曲第一番「巨人」だった。

 

この曲が自分のなかで印象付けられたのは、あるテレビ番組によってだと思う。その昔、「オーケストラがやってきた」という音楽番組があった。司会は山本直純。(呼び捨てはまずいか。ちょっと気になるがそのまま続ける。)ある回で、この曲が取り上げられたのだが、その紹介のされ方が、なにしろユニークだった。当時流行っていた「およげ!たいやきくん」の歌詞を、第一楽章の主要主題にそのままそっくり乗っけたのだ。すると、なんと“まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの…”という歌詞が、主題のメロディーにぴったりと収まるではないか!まさかそんな、と思われる方は、是非試してほしい。「およげ!たいやきくん」のメロディーのコードはマイナーで、あの歌詞も一層哀愁漂う感じだが、マーラーの方はメジャーコードだ。元のメロディーと比べると、随分前向きな印象に変わるのだった。

 

そんな「巨人」を目覚めの音楽として聴くために選んだCDは、ズービン・メータ指揮、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団の演奏によるものだ。

録音は1974年12月、場所はイェルサレム。「巨人」のような人気曲は、様々な演奏家によるCDが数多あるが、その中でメータ&イスラエル・フィルというチョイスは“渋め”というべきか。演奏の印象としては、ややテンポが速いこととも相まって、当時のメータの“勢い”を感じさせる。“名演”と言っていいのではないか。

 

それにしても、1974年にイェルサレムで録音というのは、当時の中東情勢を思うと、なかなか興味深い。

1973年10月、イスラエルは、エジプトとシリアから奇襲を受けた。所謂「ヨム・キプル戦争」だ。“ヨム・キプル”、または“贖罪の日”と呼ばれるユダヤ教の祭日に、不意を突かれたイスラエルは、開戦当初、苦戦を強いられた。当時のイスラエル首相はゴルダ・メイヤ。女性である。しかしその後、アメリカからの支援もあり、最終的にはイスラエル軍が逆転勝利を収めた。この時アメリカが支援を決める経緯については、当時の米国大統領であるリチャード・ニクソンの著書、「指導者とは」(原題:LEADERS、徳岡孝夫訳)に詳しい。

支援した当事者の回想だから、その内容は(ここまで書いていいのか?)と思うほど詳細で、当時の緊迫度がこちらに伝わってくる。因みに、記載の個所は「新しい世界」の段のゴルダ・メイヤについての部分ではなく、「ニキタ・フルシチョフ」の段だ(このあたりに、ニクソンという人の政治思想が垣間見える)。もちろん、ゴルダ・メイヤについての記述の中でも、ヨム・キプル戦争については触れられているのだが、こちらは、メイヤ首相からアメリカへの感謝の言葉が中心だ。

そんな「ヨム・キプル戦争」の翌年、メータはこの録音をしたのだ。街のそこかしこで、戦争の名残を感じただろう。そんな中、当時まだ38歳だったインド人指揮者は、一体どんな気持ちで、タクトを振ったのだろうか…。

 

因みに「ヨム・キプル戦争」当時のエジプト側の大統領はサダト。「指導者とは」の中には、サダトについての記述もあるが、その中に、ニクソンによる興味深い言葉があるので、それを紹介しておしまいにする。

 

サダトは農民の出であることを隠さなかったが、べつに自分が「庶民の一人」であることを国民に誇示しなかった。一流の政治家は、あまりそれをしないものである。

“ゾンビ”投信を売払った件

素人投資家が憂う日銀のETF購入で、NISAが始まってから株を買い始めたといったが、株以外に投資信託も買っていた。こちらも財テク雑誌で「投資信託の積み立てもお薦め」などと書かれているので、小市民よろしく素直にその“アドバイス”に従ってきたのだが、先日、新聞を読んでいると「ゾンビ投信」という文字が目に留まった。

(何だ、これは)と思ってよく読んでみると、最近の激しい手数料競争の中でも古い投信には手数料が高く運用効率も悪いものも残っているそうで、それを「ゾンビ投信」と呼ぶらしい。記事の中で、“いい”投信と“わるい”投信の事例として、それぞれ紹介されていたのは「eMAXIS Slim国内株式(日経平均)」と「三菱UFJ インデックス225オープン」。「eMAXIS Slim国内株式」は信託報酬が0.14% で、こちらは“安い”例。一方「三菱UFJ インデックス225」 は“高い”例で0.62%とのことで、こちらが所謂「ゾンビ」だ。

(なるほどね)などと思いながら、(はて、自分の持っている投信の信託報酬はどれくらいだろう?)と疑問が湧いた。何しろ、大して調べもせず、雑誌やネットで、「この投信がいいですよ」と載っているものを鵜吞みにして買っていたのだ。銘柄は「SMT グローバル株式インデックス・オープン」。早速、信託報酬を調べてみると、何と0.55%。(ほとんどゾンビと同じじゃないの)というのが、まず第一印象。己の不明を恥じつつ、次に考えたのは、(はて、これは、このまま持っていてもよいのか、それとも売ってしまうべきか)という疑問だった。(件の新聞記事には、証券会社への提言、というよりは“苦言”はあった一方、購入者へのアドバイスはなかった。)

まずはネットで「SMT グローバル株式インデックス・オープン」を保有している人が何か言っていないか調べてみる。すると、「手放したいが塩漬けにしている」というのが大方だった。投信を売るには手数料もかかるが、利益が出ていれば、それに対して当然税金も取られる。「SMT グローバル株式インデックス」は、“世界の主要国の株式に分散投資”しているから、近頃の米国マーケットの好調につられて、設定来最高値水準になっている。普通に売れば、利益が出ている分、税金もたくさん取られてしまうのだ。

しかし、私の場合は少し事情が違う。そもそもNISAが前提で積み立てを始めたのだ。初期に買った分は、ロールオーバーせずに特定口座に移していたが、それでも、かなりの部分は今でもNISA口座にある。そうであれば、少なくともNISA口座分は売却しても税金が取られないのではないか。

そこで、さらにググってみたのだが、残念ながら「ゾンビ投信」の売却についてのコメントは見つけられなかった。さあ、どうするか。折しもこの年末のタイミングで、証券会社からは、「ロールオーバーするか、しないか、早く連絡して」との催促のメールが届いている。“決断”を先延ばしにする余裕はない(ちょっとオーバーだが…)。

結局、(“ゾンビ”なんぞを手元に置いておくのはアラカンの沽券にかかわる)という非科学的な判断で、NISA口座分は全て売却すると決めたのが3日前。そして今日、証券会社から売却注文約定の連絡があった。本当にこれでよかったのか、全く自信がないが、まずは一仕事終わったということで、安堵のため息が出た(全くの小心者である)。

売却で得た資金は、半分は、“ゾンビでない”今時の投信に再投資するつもりだ。しかし、残り半分は、暫く現金としてそのまま持っておこうと思う。米国マーケットの好調が、このままずっと継続するとは、ちょっと思えないからだ。

 

それにしても、“5年たったらロールオーバー”とか、日本のNISA特有の面倒な仕組みは何とかならないものか。NISAの見本となったのはイギリスのISAだが、こちらは1999年の導入時から、そもそも非課税期間に制限がなく(NISAは5年)、口座開設期間も当初10年の期限付きだったのが、導入9年目の2008年に撤廃された。このような制度の“使い勝手の良さ”の違いは、普及度にも表れていて、イギリスでは成人人口に占める利用者の割合が42.5%(一人当たりの利用額は約400万円)なのに対し、日本のそれはわずか11.4%(同約70万円)とのこと(金融庁「安定的な資産形成に向けた取組み(金融税制・金融リテラシー関連)」平成30年11月16日から引用)。

実は日本のNISAも2024年に制度改正があるのだが、こちらは“『二階建て』になる”とか、“口座開設可能期間が5年間延長される”とか、コマイ話ばかり、非課税期間は5年間のままな一方、ジュニアNISAは廃止になるとのこと。利用率を高めたいと考えるなら、イギリスを見習って非課税期間に“手当て”するのが最も効果的と思うのだが、今の政権与党にも、霞が関のお役人にもその気はないようだ。コロナを巡る一連の対応で、現政権への期待が失望に変わった今、野党にはコロナ以外の部分でも存在感を発揮してほしいところだ。

ロックダウンと「リーダーシップ」

旭川は好きな街の一つだ。若いころは仕事の関係でかなりの頻度で訪れた。当時のお気に入りの航空会社は日本エアシステム。とにかく空いているのがよかった。旭川空港からはバスで市街へ向かう。途中、旭川医大の横を通って、右折した後、坂を下り、橋を渡れば、終点のJR旭川駅前は、もうすぐだ。

 

旭川の事業所長には、随分と良くしてもらった。年齢は自分より一回り位上か。郷里が同じということもあったと思うが、面倒見の良い人だった。仕事が終われば、ほとんど例外なく、飲みに連れて行ってくれた。地元のうまい店で腹いっぱいになった後は、二件目に向かう。宿泊するホテルも、大抵繁華街の近隣に取ったので、“帰りの足”に心配がない。ついつい深酒をし、翌日は酷い二日酔いということも珍しくなかった。そんなわけで、北海道での“夜の街”というと、自分の中では、札幌ススキノよりは、旭川の思い出のほうがはるかに深い。もちろん、札幌に出張する機会も少なくなく、ススキノにもそれなりにお世話になったのだが、旭川の比ではなかった。

 

そんな旭川が、今、医療崩壊の危機に瀕しているという。北海道でコロナ感染拡大が進む中、札幌ススキノについては、飲食店の時短や休業の話をテレビのニュースでよく見聞きするが、旭川は実際どうだったのか。記憶に残る歓楽街の様子や雰囲気からすれば、かなり強力な対策を講じなければ、あっという間に感染が拡大しそうだ。自衛隊に看護官派遣を要請したとのことだが、その時点ですでに十分“非常事態”なのではなかろうか。直ちに“ロックダウン”したとして、それに反対する市民がいるのだろうか。

 

“ロックダウン”というと、どうしても休業した飲食店への補償をどうするのかという話になる。自粛“要請”ですら、あれだけ逡巡する首長たちだから、“ロックダウン”などといったら、とても判断が出来そうもない。しかし、新型コロナウイルスの、感染から診断、発症、そして治癒のタイムラインを考えてみると、たとえば3週間完全にロックダウンし、違反者には台湾のように罰金を科して、ロックダウンが100%遂行されるようにすれば、3週間後には、飲食店も、時短等もない“フルスペック”の営業再開が可能なのではないか。中途半端な“お願い”を繰り返し、国民に“善意”の行動変容を求めるばかりで、いつまで経っても“出口”が見えない状況が続くより、「3週間、完全にロックダウンします。しかし、3週間後には、必ずフルスペックで経済活動を再開させるので、その間は、どうか我慢して下さい。」と言った方が、飲食店の経営者達も、よほど将来に希望が持てるのではなかろうか。

 

首長たちは判断できない、言ったが、彼らだけを責めるのは酷というものだろう。ロックダウンに伴う“痛み”や、それを実行するのに必要な経費の予算規模から考えれば、国が判断すべきなのは明白だ。一方、首相、担当大臣や官房長官の発言を聞くと、“下手なことを言って、言質を取られたくない”と思惑が見え透いている。この“リーダーシップ”の欠如は、どうにかならないものだろうか。そんなことを、つらつら考えたとき、思い出されたのは、またしても、トム・デマルコの「ゆとりの法則」(原題:Slack、訳:伊豆原弓)の中の一節だ。

デマルコによると、リーダーシップには、5つの要素が必要という。一番目の要素は「方向性を明示する」。しかし、残念なことに、「リーダー」からは、この1番目の要素だけが示されることが多い。デマルコはこれを、偽りの「リーダーシップ」という。真のリーダーシップには、そのあとに続く、2番目から5番目の要素を示すことが必須だ。2番目は「短期的には痛みがともなうことを素直に認める」。それでは、3番目から5番目は何か。

3番目は、

フォローアップする。

4番目は、

フォローアップする。

そして、5番目も、

フォローアップする。

 

デマルコは、本書のなかで、偽りの「リーダーシップ」の例として、ジョージ・ブッシュ大統領の、全米教育サミット(1989年9月開催)での「アメリカの若者が2000年までに理科と数学でトップになる」という“宣言”を引き合いに出している(その後も“成績不良”は変わらなかった。のちにブッシュ大統領は、「意思はあるが、財力はない」と語ったという)。しかし、“勝負の3週間”宣言に比べれば、国民が被る損害の何とささやかなことか。

 

今から二か月半ほど前、合流新党と原子力研究で、「日本の新しいトップに対して、国内はもとより、外交においても活躍してほしいと期待するのは、日本人として当然のことだろう。」と書いた。しかし、残念ながら “期待はずれ”だったのは、世論調査での支持率急落が示す通りだ。もし政府与党に自浄作用があるのであれば、直ちにトップを変える手立てを考えるべきではないか。随分前のことだが、ある外資系企業の社長就任披露パーティーに呼ばれたことがあった。非常に盛大な会で、会場は確か帝国ホテルだった。来賓の中には、安倍元首相もいたように思う(もしかしたら記憶違いかもしれないが)。そんな大々的な“お披露目”をしたにもかかわらず、件の社長はその3ヶ月後には、その会社を去っていた。企業(外資系は特に)であれば、そのアサインメントが“間違い”とわかれば躊躇なく更迭に舵を切る。そうしなければ、企業の存続にかかわることがわかっているからだ。だったら国家はどうなのか?コロナが落ち着いたら、海外移住先を真剣に考えるか、などと思ったりする今日この頃だ。

iDeCoの“デスバレー(死の谷)”

素人投資家が憂う日銀のETF購入はNISAの話だったが、今回はiDeCoである。財テク雑誌などを見ても、NISAとiDeCoは、両方とも頻繁に取り上げられていて、どちらが得だとか、或いは両方活用を“賢く”活用しましょうとか、まあ、NISAもiDeCoも投資しておいて損はないという趣旨の話がほとんどと思う。

 

以前、自分が社員数10人くらいの外資企業の日本支社を預かっていた時のこと。優秀な社員を獲得するためには、福利厚生も充実させねばと、あの手この手を打っていたのだが、最大の難関は退職金制度だった。何しろ退職金を出すには“原資”がいる。当時の日本支社の売り上げ規模から考えても、本社の人事部門が日本独自の退職金制度にOKを出すとは、到底考えられなかった。仕方なく、その当時は、まだ発刊されたばかりだった「小さな会社のための新しい退職金・企業年金入門」(山崎俊輔著)なども読んで“勉強”した。

結果、社員達には、自社の退職金制度の代わりに、まずはiDeCoを活用してもらおうと、銀行からファイナンシャルプランナーの方にオフィスまでお越し頂いて、説明会を開いたりしていた。

 

社員数10人と言っても社員のプロファイルは様々で、20歳代の若手もいれば60歳を超えた“ベテラン”もいた。iDeCoの説明会には、そんなベテランも参加するのだが、説明会が終わって当然出たのは、 “なんだ、60超えたら入れないんじゃないの”という不満の声である。

そう、当時、iDeCoの加入年齢は60歳未満、つまり59歳までだった。“当時”といっても今から3年ほど前である。そんな昔のことではない。すでに“65歳定年”は当たり前である。それにもかかわらず、iDeCoの加入は59歳まで。全く、“お国”のやることは万事この調子と、諦めにも似た気持ちになったものだ。

 

そんな状況を変えたのは、今年5月に行われた法改正。60歳未満だった加入条件が65歳に引き上げられた。めでたし、めでたし、と終わりたいところだが、さにあらず。実は法改正は今年の5月だが、施行は2022年の5月、何と2年後だというのだ。それでは、今年60歳になる人はどうすればいいのか。ファイナンシャルプランナーさんがやっているウェブサイトなどをみると、親切にも「2022年5月より前に60歳になるiDeCo加入者は、2022年5月に再加入できるように、60歳の時点で受け取り手続きをしないように」などとアドバイスして下さっている。要は、法改正が今年の5月でも、施行は2年後、それまでに60歳になる人の加入期間は、そこで一旦終了です、ということだ。全くもって、“不細工” な制度設計と言うより他ない。2年後に再加入可能とわかっているなら、そのまま加入を継続させれば何の問題もなかろうに、それをわざわざ一旦“脱退”させ、2年度に再度加入の手続きをしろとは、一体どれほど無駄な労力を国民に負わせたら気が済むのか。余りの“イケてなさ”に、60歳の誕生日を境に突然訪れるこの未加入期間を、“iDeCoのデスバレー(死の谷)”と命名することにする。( “人に関心を持たなくてはならない”の著作権は誰にある?に出てきたエリック・シュミット達と違い、著作権を主張したりはしない。“デスバレー”と言えば、ベンチャー企業界隈では、手持ちのキャッシュよりバーンレートが勝り、資金が底をつく状況のことを指すが、まあ、それくらい有難くない状況ということだ。)

 

因みにiDeCoの加入には、年齢以外にも “国民年金被保険者”という条件が付いている。自営業者などの第1号被保険者は、そもそも60歳で国民年金被保険者の資格を喪失するから、法改正後も60歳以降はiDeCoに加入することはできない。アントレプレナーにセーフティネットは不要かは、失業保険受給資格についての国のちぐはぐな政策についてだったが、こちらも“ちぐはぐ度” は似たようなものだ。国の政策として開業率を増やしたいのなら、自営業者への“手当て”も時代に即したものにすべきだろう。一昔前なら、“自営業者”と言えば、農林業や小売業などの“家業を継ぐ”人たちが中心だったが、今では、専門知識を生かしたコンサルなどのフリーランス業にシフトしてきているのは総務省労働力調査からも明らかだ。そんな新しいタイプの自営業者達が“老後に備える”上で、サラリーマン達と“差別”される道理はないと思うのだが。

素人投資家が憂う日銀のETF購入

先日、久しぶりに外出した。ダイニングの電球が切れてしまったので、近所の大型電気店で購入することにしたのだ。不要不急の外出は控えることにしているが、ダイニングが暗いままでは夕食も覚束ない。まあ、平日の午前中であればそれほど混んでもいないだろうということで、切れた電球も持参で(替えの電球の購入では、これまで何度も痛い目にあっているので、必ず切れた電球も持っていくことにしている)カミさんと車で出かけたのだ。

うちの近所には、有名どころの大型電気店は一通り揃っている。その中でも、よく利用するのはK’s電気だ。なぜかわからないが、なんとなくK’sで買い物をすることが多い。個人的な印象だが、他店と比べて店員さんの人柄がよいような気がする。しかし、今回の行先はビックカメラだ。どうしてか。それは、ついこの間、ビックカメラから株主優待の金券が届いたからだ。

 

自分が株を始めたのは2014年から。そう、NISAが始まった年だ。それまでは、株などというものは素人が手を出したら大変な目に合うに違いない“怖いもの”としか思っていなかったのだが、国が新しく制度を作るなら、何か“お得な”インセンティブがついてくるのに違いないと、ろくに勉強もしないまま、ネット証券に口座を作ったのだ。

その後は毎年、NISAの年間枠を超えない範囲で、手持ちの株を増やしてきた。全く、国の思惑通りに行動する、国民の鏡のようだと自分でも思うが、それを小市民的行動と恥ずかしがる歳でもない。

 

そうやって毎年“買” ってきた株だが、実はほとんど“売” ったことがない。唯一の例外はパルコ株で、昨年末に親会社のJ.フロントリテイリング(大丸と松坂屋ホールディングスの共同持株会社)がTOBを実施したことから、上場廃止となってしまった。パルコの株主優待は金券の他、映画の無料鑑賞券もついていて、とても気に入っていたのだが、泣く泣く手放すより仕方なかった。それでもTOBということで、購入価格よりずいぶん高く売れたのだから、ヨシとしよう。

 

その一方、コロナ禍の影響で今年の3月19日に東証が年初来安値を付けたときには、正直(どうしたものか)と思った。理想的には2月下旬に下落傾向が顕著になった段階で手持ちの株を売り、3月19日以降、株価の回復傾向が見えた段階で買い戻すということなのだろうが、そんな才覚があるわけもなく、また、毎日株価の動向をウォッチするほど “力が入って”いるわけでもない。結局、(2~3年もすれば元に戻るだろう)ということで、何もせぬままほったらかしにしていたのだ。

 

それがどうしたことだろう、“2~3年”どころか、約8ヶ月後の先月後半には29年ぶりの高値を更新し、2万7千円台に迫る勢いだ。手持ちの株の価値が上がるのは、もちろんありがたいことだが、冷静に考えてみれば、新型コロナの感染再拡大が叫ばれ、経済の先行きも不透明な中で、株価が上がる材料が思いつかない。隠れトランプとアメリカ人上司でご登場頂いた師匠にも、「ロジックは何だ」と突っ込まれそうだ。せいぜい思いつくのは、外国人投資家や機関投資家あたりが素人には知りえない材料に基づいて買っているのか、という程度だ。ところが、思いもよらぬところから “新情報”が入った。うちのカミさん曰く、「日銀が買ってるみたいよ」。私以上に経済オンチの彼女が、一体どういう訳でそんな“ネタ” に食いついたのか、全く理解不能だが、内容の方もちょっと信じられなかったので、早速ネットでググってみた。すると、何と日経辺りの記事にも、11月に入ってからも日銀がETFを購入しているとあるではないか。これには心底驚いた。日銀がETFを購入して株価を下支えしているというのは、随分と前からたびたび報道されてきた。アベノミクスの“見栄え”をよくするためには、そのような“操作”も必要だったのだろう。しかし、この株価上昇局面で、それが必要だろうか?私はむしろ、日銀はこれまでに積み上がったETFをこっそり売っているのではないかとすら勘ぐっていた程なのだが…。市場の健全化という観点から見れば、それはそれでいいのではと思っていたのだが、まさか“買” っていたとは。この先もずっと日銀が株価を買い支えることが可能なのであればそれでも構わないが、このまま行けば、いずれ二進も三進もいかなくなる時が来るように思う。その時こそ、(2~3年もすれば元に戻るだろう)と悠長なことを言っていられなくなるのではないか。NISAがきっかけで株投資を始めた一般人が、この先、官製バブル崩壊が原因で、大きな損失を被るようなことになれば、それこそ目も当てられない...。

 

ビックカメラでは、株主優待の金券を使って、無事買い物ができた。やはり、切れた電球を持って行ったのは大正解で、あれがなければ、とても購入できなかった。最初は自分達で、売り場の中から替えの電球を探そうとしたのだが、余りに種類が多すぎて、どれが“正解”か見当もつかない。仕方なく、売り場の店員さんに、切れた電球を手渡し、「これの代わりを探してほしい」とお願いすると、親切に対応頂き、すぐに商品を見つけてくれた。店員さんの人柄で店を選ぶのであれば、ビックカメラも悪くないなと思ったのだった。