アラ還オヤジの備忘録

雑感や、その他諸々。

当ブログではアフィリエイト広告を利用しています

2年縛り、まだあるってよ。

キャリアメールが付いている新料金プランがあればいいのに。で、携帯のキャリアをmineoに乗り換えるつもり、と書いてから既に二ヶ月以上。実は未だにどうしたものかと逡巡していた。5G対応ガラホはかなわぬ夢かでお話した通り、自分はガラホ使いで月々の支払いは二千円を切る。格安SIMのmineoといえども、変更後最初の数か月のキャンペーン期間を過ぎれば、支払い額は現在とさして変わらない。さらに、新たにスマホを購入するとなれば、結局今より割高になってしまう。

こう書くと、毎月の携帯代に随分とこだわっているように聞こえそうだが、実は最大の理由は、現在使っているガラホ(京セラのGRATINA 4G)があまりに賢すぎて、手放すのが何とも惜しい気がするということだ。

5G対応ガラホはかなわぬ夢かでは、メールアプリの「AquaMail」とTwitterクライアントの「SobaCha」の話をしたが、それ以外にも、「CardDAV-Sync」を使ってGoogleカレンダーとも同期しているので、パソコンのGoogleカレンダー側でアラーム設定しておけば、時間になれば、ガラホが「そろそろ予定の時間ですよ」と、健気(?)にも通知までしてくれるのだ。

そもそも昨年10月時点でガラホの買い替えを考えたのは、モバイルSuicaログインサービス終了と“COCOA”対応が主な理由だったが、今となってはモバイルSuica云々を言っても仕方なく、また“COCOA”なんぞは全く信用のおけないくずアプリであることが露呈した。そんな中では、敢えてスマホに買い替える必要はないのでは、とも感じていたのだ。

そんなわけで、なかなか思い切りがつかず、文字通りグズグズしていたのだが、このゴールデンウィークにはすることもなく、かといって外出も憚られることから、暇を持て余している。(そう言えば、携帯のキャリア変更には、それが可能な期間と、違約金を取られる期間があったような…)ということを思い出し、暇つぶしという訳でもないが、auのサポートに電話して、自分の契約内容を確認してみることにしたのだ。

フリーダイヤル(この言葉も今は死語か。何しろ今時の電話に“ダイヤル”はない)に電話し、待つこと30分弱、オペレーターのかたにようやくつながり、件の質問をしてみると、私に場合は、ちょうど今年3月から違約金のかからない期間が始まり、終わりは5月31日。それ以降は、2023年の3月まで、キャリア変更すると9,500円の違約金が発生するとのこと。キャリア変更するなら今月末までですか!それを過ぎると違約金9,500円!!これはいいタイミングで確認できたと、カミさんに自慢げに話をすると、「そもそも違約金制度なんて、随分前になくなったはずよ。聞き間違いじゃないの?」と一喝された。そう言えば、確かにそんなことがあったような…。ちょっとググってみると、ありました。総務省の働きかけで、2年縛りの規制にメスが入ったのは2019年10月1日とのこと。今から1年半ほど前のことだ。確かにそのころ“2年縛りルール廃止”について盛んに報道されていたような。だとすれば、私の場合、来月以降は違約金9,500円というのは聞き間違いか。確かめるべく、再度、auのサポートに電話に電話してみると、驚愕の事実(やや大げさか)が明らかになった。

まず、「来月以降解約は違約金9,500円」は聞き間違いではないとのこと。こちらも怯まず「“2年縛り”は廃止されたのでは?」と確認すると、今の私の契約は、2年縛りの対象で、契約内容を変更しない限り、今後もずっと2年縛りが継続するというのだ。要は、2年縛りは廃止されたのではなく、2年縛りの対象とならないプランが新たに追加されただけ、こちらから新プランへの変更を申し出ない限り、2年縛りの契約が更新され続けるということだ。

さすがにこれには驚いた。auのサポートとの電話を切った後、再度ググってみると、このような状況はauに限らず、docomoSoftbankでも同様らしい。

総務省さん、ホントにこれでいいんですか!?私のカミさんを含め、多くの人は2019年10月1日以降、2年縛りの違約金はなくなったと思ってますよ。三大キャリアも、本当に油断も隙もあったモノじゃない。総務省も、もしこの実態を知ったうえで放置しているなら三大キャリアと同じ穴のムジナと言われても仕方ない。そういえば、あの“三大キャリアにモノ申す”体(てい)で、一時期マスコミの注目を浴びた総務大臣さんは、最近は影も形も見なくなったが、もし、この2年縛りについての事実を知っての上でのあの態度なら、茶番も甚だしいと言わざるを得ない。

いやはや、思わぬ形で、携帯の契約内容の落とし穴に気が付いたわけだが、この一件でauに対するloyaltyは一気に低下してしまった。という訳で、キャリア変更に具体的に動くことに。結果は、また後日にご報告します。

医療崩壊とアメーバ経営

先週から始まったゴールデンウィークだが、コロナ禍ではどこかへ出かけることもできず、どうしても自宅でテレビを見る時間が長くなる。昨日見たのはNHKスペシャル「看護師たちの限界線〜密着 新型コロナ集中治療室〜」。先月17日放映されたものの再放送らしい。タイトルからして、どのような内容かは容易に想像できると思うが、最近の感染者数急上昇と、それに伴う医療提供体制の急激な悪化が耳目を集める今、タイムリーな再放送と思う。

それにしても、このゴールデンウィーク中、不要不急の外出は控えて、と言われているのにもかかわらず、「強制されていないから」とか「マスクをしているから大丈夫」とか言っている連中には、この番組を“強制” 的に見させるべきではないか、と思う内容だった。本当に現場の医療提供者の奮闘ぶりには頭が下がるというより他にない。

その一方で、番組のなかで登場する看護師さんが「ボーナスが半分になった」と嘆くシーンには心が痛んだ。本当に、どうにかならないものか。

聞けば、コロナ禍で来院する患者数が減少、病院の収入が減り経営が悪化した結果、看護師さんたちへのボーナスも減ってしまったらしい。そもそも医療の世界にどの程度“経営”が入り込むべきか、素人の自分には語るべくもないが、仮に“経営”視点が医療にも必須のものであるなら、この際、徹底的に“経営”に取り組んでみてはどうだろうか。

経営手法にもいろいろあるが、まず最初に導入をお勧めするのは、稲森和夫の「アメーバ経営」だ。

番組では、ICU(集中治療室)担当の看護師たちは、一度ICUに入ったら5時間出られないこともあるという。そのため、中にはおむつを付けている看護師さんもいるそうだ。さらに感染防止のための装備をつけての業務には負担も大きい。頭から顔全体を覆うようにしてつけているマスクも、重さが1kgを超えるそうだ。資格を持った専門職である看護師が、そのような過酷な労働条件のもとで長時間の業務を強いられているのだ。診療報酬点数の建てつけが間違っていなければ、「アメーバ経営」の観点を取り入れれば、ICUが上げている“収益”は、他の診療科のそれに比べて非常に大きいことが明らかになるに違いない(なにしろ病院全体としては患者数が減少しているのだ)。ICUで上げられた利益は、ICUで働く医療従事者に還元すべきで、病院全体の利益に“埋没”させるべきではない。それが「アメーバ経営」だ。この際だから、稲盛氏に病院経営改革を依頼してみては、とすら思う。何しろ、あの瀕死状態だったJALも、彼の手腕とアメーバ経営によって再生したのだから。

因みに以上の話は、あくまで「診療報酬点数の建てつけが間違っていない」のが前提だ。もし、この前提が成り立たない状況であるなら、直ちに診療報酬を改定すべきだろう。診療報酬改定というと、薬価切り下げばかりという印象もあるが、ここは、心を入れ替えたに違いない“クラスタ厚労省官僚”の皆さんに、是非ともICUで働く医療従事者と、ひいては国民のために汗をかいてもらいたいところだ。

帰国外国人の住民税未払い問題

再就職しましたで書いた通り、この春までプー太郎だったわけだが、要はその間、収入がなかったということだ。そんな中で湧いた疑問が、「他の失業者は住民税の支払いはどうしているのだろう?」だ。

失業したことのない人の中には、もしかしたら「収入がないのなら、住民税の支払いもないだろう」と思われているかもしれないが、それは大いなる誤解である。一般サラリーマンは給与天引きなので実感がないかもしれないが、実は住民税というのは前年の1月から12月までの収入に応じて、その翌年6月に請求される。給与天引きであれば、6月以降の12ヶ月間、分割して支払うことになる。新卒で就職した一年目は住民税は天引きされていなかったのが、2年目からは天引きされるようになり、手取りが減ったという遠い昔の記憶が呼び起された。

そんなわけでプー太郎期間中も住民税は支払い続けたわけだが、2ヶ月前に再就職して、最初の給与明細を見ると、住民税の欄は“ゼロ”である。それはそうだろう。プー太郎中にも市から四半期分毎にしっかりと請求がきており、まじめに支払った一方、その期間は収入がなかったのだから、「前年の1月から12月までの収入に応じて、その翌年6月に請求される」という建て付けである以上、暫くの間は住民税は支払わなくてよいはずだ。

それにしても、収入ゼロの失業者からは住民税を取り立て、再就職したらその後しばらくは住民税の請求はなし、という仕組みはどうかと思う。失業期間中は住民税の請求は一旦停止し、再就職出来たら住民税の納付を再開するということにすれば、何の問題もないのではなかろうか。霞が関の優秀なお役人の皆さんには、「なんちゃら給付金」を乱発する暇があったら、こういう根本的な問題について、もっとしっかり考えてほしいものだ。因みに自分の場合はコロナで失業したが、全国民を対象に配布された一律10万円の「特別定額給付金」以外は、「なんちゃら給付金」は一円も頂戴できていない。何兆円もの国家予算が投入されているというが、一体どこに“流れて”いるのだろうか?

そんなことをつらつら考えながら、ふと思ったのは、「海外から日本に赴任していた外国人が帰国したら、 “前年の”住民税の支払いはどうなるのだろう?」ということだ。例えば、日本に三年ほど赴任していた外国人ビジネスマンがいるとして、最初の一年目は住民税の支払いはなし、二年目から住民税を支払い始めたとしても、帰国時には住民税の支払いが一年分残っているはずだ。帰国時に未払いの住民税もまとめて支払ってくれればよいが、「ウチに強くソトに弱い」日本の役所にそんなことができるのだろうか?

ちょっとググってみると、案の定、帰国外国人の住民税未払いが大きな問題になっているようだ。総務省発行の令和元年度個人住民税検討会報告書を見ると、その年4回開催された検討会のうち、前半二回は「グローバル社会における個人住民税のあり方」、後半二回は「個人住民税の現年課税化」について検討されている。「グローバル社会における個人住民税のあり方」の検討の中では、“在留外国人の個人住民税の徴収に係る市町村における課題”として、次の二点が問題点として挙げられている。

  1. 特別徴収されず普通徴収の者が多いなどの理由で、滞納が発生しやすいこと
  2. 出国(帰国)後、事実上徴収不可能になってしまう場合が多いこと

詳しい議論の内容は報告書を見てほしいのだが、「文化や言葉の壁、納税意識の違いなどにより、滞納処理が進まない」、「市町村が事前に出国を把握するすべがなく、外国人に対し直接納税を求めるタイミングがない」(資料3:「グローバル社会における個人住民税のあり方」から抜粋)等、ほとんど“泣き言”といえるような口実で、外国人からの住民税の徴収が進まないことを“正当化”しているようにも見える。失業者は言葉の壁もなく、出国もしないから、容赦なく取り立ててやれということか。

本資料の中では、「究極的な解決策としては、現年課税が考えられる」としていて、正にその通りと思うが、結論は「これは中長期的な検討を要する課題」で、真剣かつ迅速に取り組もうという姿勢は全く感じられない。現場が悲鳴を上げているなら、それを解決するようなエレガントな策を講じるのが中央官僚の仕事だろう。(“エレガント”な策とはどんなものかは、社長の仕事と“仕組みと仕掛け”(そして、コロナ対策の優先順位)で紹介した「ティッピング・ポイント」(原題:The Tipping Point、マルコム・グラッドウェル著)の中の、サンディエゴ黒人地区での乳がん啓発キャンペーンの事例を参照してほしい。)

以前、Go To Eatの“Why”は何か?で、農林水産省の官僚たちの態度と能力にモノ申したことがあった。5G対応ガラホはかなわぬ夢かでは、新型コロナウイルス接触確認アプリ”COCOA”を使うために、スマホ購入を検討していると書いたが、その後、COCOAポンコツぶり、というか厚生労働省の余りのいい加減さが白日の下に晒された(送別会でクラスター発生の件は、敢えてここでは触れまい)。そして、今度は総務省。全く、日本の官僚組織は機能しているのか、などと考えながら、今日の朝刊の書評欄を見ていて、目に留まったのが、「文部科学省」(青木栄一著)。

帯には「失敗はなぜ繰り返されるのか」の文字。今度は文部科学省ですか。中身を見て、「これは、根っこの部分は農水省厚労省総務省も同じだな」と感じるのは自分だけではあるまい。

昨今、コロナ対策における内外の格差を見て、「日本が今も一流国というのは全くの幻想」という証左を見せつけられることが多くなったように思う。その全責任を官僚達に負わせるつもりはないが、かといって全く関係ないということもなかろう。政治家に対しては民意を「選挙」という形で表明することが出来ても、官僚に対しては、国民はそのような術を持たない。だが、昨今の高級官僚の不祥事にかかる報道を見るにつけ、官僚に対しても何らかの手段を用意すべきなのでは、と感じる今日この頃だ。

再就職しました

タイトルの通りである。先月から新しい会社に勤め始めた。暫くの間プー太郎だったのだが、ご縁があって久方ぶりのサラリーマン復帰である。

前職では、米国法人の日本支社を預かっていたのだが、コロナ禍の影響をまともに受けて東京オフィスは閉鎖、お前もいらん、ということになり、あっけなく路頭に放り出されることになった。そもそも、特に転職活動をしていたわけでもなかった自分に、「どうしてもウチに来てください」と言うから、「そこまで言うなら」と、その会社に転職したのだが、いざとなったら、そんな経緯はおくびにも出さず、あっさりクビである。言いたいことは山ほどあったが、アメリカ人相手にその手の喧嘩をしても時間の無駄なのはよくわかっているので、さっさとケリをつけたのは昨年5月だ。

コロナ禍では、転職活動もままならず、暫くはジタバタせずのんびり過ごそうと決めたのだが、夏を過ぎ、冬の足音を聞く季節になっても、コロナは一向に収まる様子を見せない。さすがに「このままのんびりしていていいのか?」と不安がよぎるようになってきた。

隠れトランプとアメリカ人上司で、「師匠に相談事があった」と書いたが、相談事とは、正にこのことだった。それに対する師匠の答えは「そのまま暫くはジタバタせず、のんびりしていろ」。そう言われると「そんなものか」と、気持ちも多少は楽になったのだった。

そうこうしているうち、年末頃から、それまで付き合いにあったエージェントから幾つか自分のスキルセットに合いそうなオポチュニティが舞い込んでくるようになった。これは、と思うものについてはインタビューを受け、結果、お陰様でめでたくそのうちの一社と契約まで漕ぎつけた。こんなアラカンのジジイにオファーしてくれるのだから、有難いことだ。

こんな風に書くと、「随分とのんびりしていて、気楽なものだ」と思われるかもしれない。確かに、すでに息子は手を離れて独立し、お陰様で住宅ローンも完済した、と言う訳で、若い頃のように切羽詰まるということはないが、それなりに、というか、人並みに不安やプレッシャーはあるものだ。以前、ネルソン・マンデラとポケトークで「最初に就職した会社を飛び出し、ベンチャー外資を転々とした」と書いたが、その中には、文字通り、精神的にも経済的にも“切羽詰まった”こともあった。

そんなとき、どうするか。友人や家族に頼ったり、或いは信仰に救いを求める人もいるだろうが、自分の場合は“本”だった。本当に追い詰められた時、手にする本が二冊ある。一冊は「運命を拓く」(中村天風)。

もう一冊は、「道は開ける」(D・カーネギー)だ。

この二冊、タイトルこそ、雰囲気が似ているが、著者のバックグラウンドも体裁も全く異なる。「運命を拓く」は、ヨガの聖地での修行から悟りを得たという著者の講演集、「道は開ける」は、著者がYMCAの夜間学校で多くの生徒たちが悩みを抱えていることを知り、それを解決する目的でニューヨーク共立図書館にある22冊の悩みに関する書籍全部を読破し、さらには自身の夜間学校での経験を踏まえて執筆したものだ。

ところが中身を読んでみると、意外なほど共通するアドバイスが多い。例えば「運命を拓く」には、こんな句が出てくる。

悲しくば あす悲しまめ 今日の日は 光うるおしく 吾れを 照らすを

一方、「道は開ける」では、PART 1の最初に「今日、一日の区切りで生きよ」という章が立てられているという具合だ。

「今日のことだけ考えていられるなら、とっくの昔にそうしている。」という声も出てきそうだが、もし、今、何かお悩みなら、騙されたと思ってまずは両著を手に取ってみてほしい。

因みにこの二人の著者、共通点が全くなさそうなのだが、実は一つ、似た点がある。中村天風は1876年生まれ、一方、D・カーネギーはというと1888年生まれ。ほぼ同時代の人だ。二人が実際に出会うことはまさかなかったとは思うが、もしかしたら、と想像してみるもの楽しいものだ。

Excelと、“why”の先にあるもの

今朝ほど、Yahooニュースのアクセスランキング(IT総合)を見ると、一位はExcelの話題だった。Excelで作成した書類を印刷してみると、画面に表示されたものとは違ったものが出てくるとか、まあ、“Excelあるある”だ。

現在のビジネス社会でExcelのない世界を創造するのは難しいが、今からおよそ40年前、自分が大学を卒業し、新入社員として企業に就職したときは、Excelはおろか、Windowsすらない時代だった。その頃は、まだ、ワープロ専用機が全盛で、パソコンにワープロソフトをインストールして使うというのは、そのしばらく後だったと思う。ワープロ専用機にしても、最初の頃は、タイプした文字を表示する画面が一行分(!)の大きさしかなく、その後、ブラウン管(液晶じゃありません)で全体を見ることができるようになったのは、画期的なことだった。

さて、話をExcelに戻すと、その歴史を見ると意外なことがわかる。実は、ExcelはもともとMac専用ソフトだったのだ。MicrosoftMac専用ソフトを開発するのも不思議なのだが、あの頃は“Macでしか使えないソフト”が結構あり、それらのソフトを使用したいがためにMacを使うという人も少なくなかった。

パソコンの起動音とピクサー映画で書いた通り、海外の取引先とのビジネスの関係でMacを使い始めることになった自分は、Excelを含め、それらの“Mac専用ソフト”に触れたのも早かった。何しろ、Excelはおろか、Wordですら最初はMac専用だったのだ。それ以外にも、FileMaker(データベースソフト)やらPersuasion (プレゼンテーションソフト、パワポのようなもの、というか元ネタと思う)やら、“選り取り見取り”だった。ちょっと変わったところでは、JMPというのもあった。

SASが開発したMac専用の統計解析ソフトで、その秀逸さに文字通り目を奪われた。こいつには随分とお世話になったものだ。(現ユーザー達にとっては、JMPが元々Mac専用だったとは思いもよらないだろう。JMPの名前の由来が”John's Macintosh Project”と知ったら、それこそ腰を抜かすのではなかろうか。)

そんなわけでExcelを使い始めたのも随分と早かったのだが、どれくらい早かったかというと、ちょうど昭和から平成に変わる頃だったと思う。昭和64年=平成元年は1989年、およそ32年前のことだ。“昭和!?”と驚かれる方もいようが、逆に考えれば、登場してから30年余り経っても、Excelを凌駕するコンセプトを持ったビジネスソフトが登場していないとも言える。

それにしても、最初にExcelを使い始めた頃はというと、周りのExcelに対する評価は結構厳しかった。こんな便利なものがあるなら、同じチームメンバーにも教えてやろうと、使い方をあれやこれやと説明するのだが、中には“Excelって、本当に使えないな”などと言うヤツが出てくる始末。今なら“使えないのはお前のほうだ”と言ってやれるのだが、当時はExcelの評価も定まっていないから、言い返すことが出来ず仕舞いだった。

さて、それから30年、使うパソコン(と言うかOS)はMacからWindowsに変わったが、さすがにこれくらい長期間使っていると、Excelの“癖”というか、立ち居振る舞いは大体把握できている。件の印刷問題も、確かにその通りなのだが、30年も使っていると、古い友達のようなもので、そんな“癖”もなんとなく許してしまう。

逆に、周りを見ていると、“もっと便利な使い方があるのに”と思わずにいられない場面に出くわすこともある。いつだったか、台湾オフィスの女性社員に人事関係のExcelファイルを送ると、「日付データの隣に曜日も入力して」とのこと。(そんなもん、自分でやれよ。曜日データなんて日付を使った関数で一発計算だろ)と思ったものの、感じの悪いヤツと思われるのも嫌なので、ハイハイ、とさっさと曜日を関数計算した列を追加して再送信したのだった。こんなことは初歩の初歩だが、Excelを使う上で、(こんなことができたらいいな)と思うことは、ほぼ間違いなくそのような機能が実装されているという印象だ。伊達に30年以上も生き延びているわけではないのだ。

そんなわけで、ひょんなことからMac & Excelを使い始めた自分だが、今ではMacに触れることもない、全くのWindows派だ。パソコンの起動音とピクサー映画で、「あのボンダイブルーiMacを最後に、Windowsに宗旨変えすることになるのだ」と書いたが、その理由はごく単純なこと、要は“Macでしか使えなかったソフトが皆Windowsでも使えるようになった”からだ。アート等の世界ではどうかわからないが、少なくとも自分が属するビジネス分野においては、“Macでしか使えないソフト” は、ほぼ現存しないと思う。であれば、敢えてAppleというブランドに対して“プレミア価格”を支払ってまでMac固執する理由はない。実際、自分の周りを見ても、同業他社でMacを使っている会社は、まず見掛けない。Macなんぞを使っていたら、逆に(なんてコスト意識の低い会社だ)と思われかねないほどだ。自宅で使うパソコンにしても、誰かに見せびらかす必要もないので、自分としてはWindowsで十分、結果、約8年前に買った富士通のノートパソコンで、今も、このブログのテキストを打っている、ということになる。

Mac/Appleと言えば、以前、Go To Eatの“Why”は何か?で、サイモン・シネックの「WHYから始めよ!」(原題:Start with Why)を紹介したことがあった。

本書の中で、著者は、Appleの成功理由として、「自分たちがそれをする“理由”からスタートしている」と説明している。確かにWhyは重要だ。しかし、その一方で「“Why”だけで顧客を繫ぎ止めておくことができるほどビジネスの世界は甘くないのでは」とも、正直思う。現に、かつては熱烈なMacユーザーだった自分も、今はMacを顧みることはない。だったら、どうすればよいのか。実は、これに対する回答と言える本がある。Scott McKainのICONIC (Forefront Books) だ。

著者は、本書の中で“DOES “WHY” MAKE YOU DIFFERENTIATED?”という章までたてて、自分はサイモン・シネックに同意しないとしている。

邦訳はないかとちょっとググってみたが、今のところ出ていないようだ。もし、邦訳の予定も立っていないのであれば、是非お願いしたいところだ。実は、昨年1月、私はL.A.で著者ご本人にお目にかかる機会があった。どちらかの出版社さん、もし、ご興味があるようでしたら、繋ぎますよ。私でよければ、翻訳も致しますので。

まん防と五分後の世界

昨日の朝刊を見ていて目に入ったのは、“「まん防」使いません”の記事。

立憲民主党の議員から「ちょっとゆるいイメージがある」と指摘され、厚生労働相も「使わないようにと思っている」とのこと。

“ゆるいイメージ”ですか…。では、イメージが“ゆるく”なかったら、そのまま使い続けたのか。そういえばその昔、“は防法”というのがあった(今もあると思うが)。こちらは“破壊活動防止法”の略だが、イメージが“ゆるくない”ためか、その略称については、特に話題になったという記憶はない。

「まん防」も「は防法」も、その言葉を口にすると、何かわかったような気にはなるが、実のところ、それが一体何なのか、正確には、というよりほとんど理解していないのは、私だけではあるまい。

こうしたことは別に政治の世界だけではない。自分が社会人になったころ、組合活動をしている先輩社員が使っていた“ベア”という言葉は、最初は皆目見当がつかなかった(この文章を読まれているかたは如何だろうか)。“ベア”とはベースアップ(base up)の略。“base up”というのが、そもそも和製英語だそうだが、基本給の昇給のことだ。知らない者にとって、ベアというその語感(熊か?)から、昇給という意味は到底思い至ることが出来ないが、使い慣れてしまった側からすれば、当たり前ということになるのだろうか。

こんなことを考えながら思い出したのは、村上龍の「五分後の世界」(幻冬舎)だ。

舞台は、1945年8月9日に長崎に原爆が投下された後も降伏せず、同月19日に小倉、26日には新潟、そして翌9月の11日には舞鶴に原爆が投下され続け、やがて人口が26万人に激減していた後も、「日本国」は連合国軍を相手にゲリラ戦を繰り広げているというパラレルワールドだ。

残された日本人は地下都市で生活しているのだが、その中で、中学生のグループと将校が会話する場面が出てくる。中学生の一人が、昨夜のCNNのニュースについて将校に質問する。それに対して、将校は「CNNとは何だね?」と言うと、中学生は自分の間違いに気付き「ケーブル・ニュース・ネットワーク」と言い直すのだ。

パラレルワールドの日本では、学校では次のように教育されていた。略称で呼ぶようになってそれに慣れてしまうと、本来の意味が失われることがある、だから、フルネームで言え、と。

 

「まん防」は、“ゆるいイメージ”だから使うべきではなく、それでは本来の意味が失われてしまうからと考える政治家はいないものなのか。小説の中では、今の日本の様子が「シミュレーションの8番」として紹介されるのだが、余りに的を射すぎていて、暗澹たる気持ちになってしまう。

それにしても、昨日の新聞記事につられて久しぶりに開いた本書だが、読み始めるとページをめくる手が止まらない。著者自身、あとがきで「今までの全ての作品の中で、最高のもの」と述べているが、本書が1994年に出版されてから27年余りたった今でも、Amazonの書評に「著者の最高傑作」というコメントが複数あがっているのも頷けるのだった。

NHKのBS放送って、必要ですか?

ウチでとっている新聞の、昨日、今日の朝刊では、NHK受信料の値下げについてフォーカスしている。自分もNHK受信料は払っているので興味はあるのだが、あまり真剣に記事を読む気にはなれない。なぜなら、予定されている値下げはBSのみで、地上波には当面値下げの予定はないと聞いていたからだ。

実はうちはBSを観ていない。以前勤めていた会社の上司に、そのことを話したら、「見れないのか…」と、半ば憐れみを帯びた眼差しを向けられた。別に経済的理由で見ないわけではない。自分の場合、テレビをリアルタイムで見ることは、ほとんどない。ニュース番組以外は、ほぼ100%、事前に録画予約したものを見ているのだが、実は、録画した番組をすべて見ているかというと、結構な割合で見ずじまいで消去してしまう。要は、録画した番組をすべて見るだけの時間的余裕がないのだ。すでに言った通り、ウチではBSは見られないから、録画するのは地上波の番組だけだ。それでも録画した番組が見切れないのだから、BSを見られるようになったところで、実際、どれだけ視聴できるかは、たかが知れている。結局、BSアンテナを立てる理由もなく、NHKの受信料を徴収する訪問員も、「あそこはBSアンテナは立ってないわね」ということで、これまでNHK BSの受信料を請求されたこともない。

「BSでしか見られない番組で、どうしても見たいと思うものはないのか」と聞かれれば、確かに幾つか見たいと思うものはある。例えば民放のBSでは、「BARレモン・ハート」とか、「ワカコ酒」とか(“飲み”関係ばかりで申し訳ない)。いずれも系列の地上波の深夜枠で再放送されていたことがあったので、何回か見たが、最近は地上波での再放送はないようだ。

では、NHKのBSはどうかというと、これと言って心惹かれるものがない、というのが本音だ。正確に言えば、心惹かれるものがないではないが、それらは地上波で再放送されることがほとんどなので、敢えてBS契約しなくても困ることはない、ということになる。

NHKの地上波の番組編成を見て思うのは、地上波の再放送のみならず、BSで放送された番組の再放送が非常に多いということだ。再放送が多いのは、実は、ゴールデンタイムに放送されるドラマ等が他局の番組と重なったとき、再放送枠(ほとんどが深夜)に予約時間をずらせるので結構助かっているのだが、裏を返せば、NHKには、そのチャンネル数に見合うコンテンツの供給体制が構築できていないということではないのか。

いずれにせよ、民法のBSを見たくてBSアンテナを立てたら、必要ないNHK BSの受信料を請求されるというのでは、本末転倒だ。国がBS放送の普及に前向きがどうかは知らないが、もし、BSを普及させたいと思っているのなら、NHKのBSは、BS全体の普及には、結果的にマイナスになっていると断言しよう。

ところで、今、「国がBS放送の普及に前向きがどうかは知らない」と言ったが、実のところ、自分自身はBSは完全に「オワコン」と思っている。そもそも、ネット放送の普及が急拡大している今、BSの必要性がわからない。自分の息子は一人暮らしをしているが、これまでテレビすら持っていなかった。それで何の不自由もないとのことだったが、実は先日、実家にあった古いテレビを持っていった。仕事上、何かテレビを見る必要があったのかもしれないが、それでも、「見られればいい」ということで、最近はやりの有機ELとか、そんなものには全く関心がない。4K、8Kなどと言ったらなおさらだ。そんな中、NHKでは、“BS 4K、8K”を盛んに宣伝しているが、そんなものに予算をつぎ込んで、一体どれほどの視聴者(特に若い世代)がそれを望んでいると思っているのだろうか。そんな要りもしないものに使う金があったら、とっとと地上波の受信料も値下げしろと思っているのは、私だけではあるまい。

さらに言わせてもらえば、現在の「地デジ」の画質以上のものを供給したところで、その違いを実感できる視聴者がどれだけいるのだろうか。先日、テレビを見ていたら、どうも(見にくい)と感じる。どうしたのかと思ったら、なんのことはない、仕事用の眼鏡をかけたまま、テレビを見ていたのだ。仕事用の眼鏡は、手元がよく見えるように度数を下げている。それをかけたままだったから、テレビはよく見えなかったのだ。こんな私のような“老眼”視聴者が、4K、8Kといわれて、その恩恵を享受することができるとは、到底思えないのだ。

 

さて、話は戻るが、予定されているNHK受信料の値下げはBSのみで、地上波には当面値下げの予定はない件、新聞報道によれば、NHK会長は、「現時点では、衛星波の割高感をまず解消するのが先」で、地上波を含めた両波の値下げは「あまり賢くない」と宣ったとのこと。このNHK会長、みずほホールディングス(HD)(現みずほFG)の社長に就任されたのが2002年、その直後に発生した大規模システム障害に対する言動を見て、当時、私は自分がやっていたウェブサイトに「こんな見るからに仕事ができなさそうな人物が社長になるとは、みずほはよほど人材が枯渇しているのではないか」と投稿していたのを思い出した。もう20年近くも前のことだが、改めて、人材の枯渇は銀行だけではないのだなと感じたのだった。